第40話 金遣いが荒すぎると怒られちゃった<下>
請求書に並んでいたのは、目を剥くような高額商品のオンパレードであった。
最高級の沈香、麝香、龍涎香といった香料は序の口。驚くべきは「珍珠」、すなわち真珠の粉末の購入量である。
現代のような養殖技術がないこの時代、真珠はすべて海女が命懸けで採取する天然もの。それを凜華は、アクセサリーにするわけでもなく、惜しげもなくすり潰して試薬に変えていたのだ。
「珍珠が五貫? 沈香が三斤? 龍涎香に麝香……。これらは香料や装飾品ではなく『薬の材料』として消費されたのか?」
「はい。なんでも、成分の抽出とやらを行うのには大量の素材が必要なのだと。……陛下、ここ一ヶ月の支出は後宮の妃の年間の生活費を優に超えております」
注文書には、千頭に一頭しか見つからないという牛の胆嚢や胆管に生じる「胆石」を乾燥させた牛黄、金よりも高価な冬虫夏草、そして尚方監に特注したらしき高純度の錫や銅の蒸留器も並んでいた。
「凜華殿は、自身の着物や装飾品、美食などの贅沢は一切しておりませんが……製薬や実験に必要な素材に関しては、『金に糸目をつけぬ』を地で行っております。妃の方々はご実家からの援助もございますが、凜華殿の出費は全て宮中の予算から支払われますので」
李元の報告に、景雲はこめかみを押さえた。
確かに後宮の妃たちは贅沢な生活を送っているが、彼女たちは後ろ盾、実家や後見人の援助で成り立っている部分も大きい。
妃であっても確固たる後ろ盾のない者は、殆ど女官と変わらない生活だ。
凜華に与えた研究予算は、一ヶ月を持たずに底を尽きた……どころか突き抜けていた。顧成が「国が傾く」と騒いだのも、あながち嫉妬だけではなかったらしい。今や凜華こそが、後宮で一番金遣いの荒い女となっていた。
「……超過した分は、私の財から出しておけ。注文してまだ届いてないものや特注品は即刻解約せよ。これ以上、太医どもに口実を与えるわけにはいかん」
もうため息しか出ないが、請求を踏み倒すわけにもいかない。景雲は凜華が予算を越えて散財しまくった分はポケットマネーで払うことにした。
「御意。陛下、一応にもお諌めになった方が……。このままではご寵愛がすぎる、陛下は女人に溺れるあまり国政を顧みないとの誹りを免れますまい」
李元の忠告に、景雲はその通りだと思った。政を投げ出してはいないが、このままでは女に貢ぎすぎて太医に諫められたアホ皇帝の汚名を免れない。
その夜。
長楽殿の居間では、皇帝の叱責とそれに反論する女の声が響き渡った。
「そんなに怒らなくでもいいじゃない。確かにちょっと使いすぎたけど、研究費っていうのは未来への投資なんだし」
凜華は、机の上に積まれた注文書の木簡の束と景雲を前にして、殊勝な顔……を作ろうとして失敗したような実に締まりのない表情で立っていた。
景雲の美貌は今、怒りによってさらに研ぎ澄まされ、手元の帳簿を握りつぶさんばかりの勢いである。
「ちょっと使いすぎた? 投資だと? 珍珠五貫に龍涎香、さらには尚方監へ蒸留器の特注……何を勝手なことばかり。来てないものは全部解約したからな」
「え~! ひどいよ!」問答無用の強制キャンセルに、凜華は唇を尖らせる。
「え~ではない! 子供か」
「でも陛下、私はちゃんと結果を出してるでしょ。あなたの不眠症を治すために施策してるし。特製の薬用酒だって。あれ一瓶でどれだけの高級素材を溶かし込んでいるか。それに、私が炭酸を作ったから玉印を拾えたわけだし」
凜華は悪びれず胸を張った。
彼女の中では「結果さえ出せば経費は落ちる」という、前世の大手製薬企業での研究員の感覚が根強く残っていた。
現代の製薬企業が新薬を世に出すためには、数十億から数百億の巨費を投じ、開発には十数年の歳月を費やす。
当時は潤沢な研究開発費に守られ、欲しい材料や試薬は国産だろうが輸入品だろうが、資材部へ注文書を出すだけですぐに用意された。個々の金額など気にしたこともなかった。
しかし、ここは異世界かつ封建制モリモリの宮廷である。
言えばなんでも調達してくれた魔法の窓口「資材部」は存在せず、今目の前にいるのは皇帝、すなわちブチギレているスポンサーのみだった。
「お前の金銭感覚は、一体どうなっているのだ。薬を作るのに、なぜ高価な香料を大量に注文する必要がある?」
「あ、それは……化粧品を作るためです。芳香成分の抽出効率が悪くてですね。えへへ」
「えへへ、ではない!」
景雲は声を荒げた。この女は、薬のことになると金銭の桁を認識する脳細胞が麻痺してしまうらしい。
「香料は大事だよ。女性向け商品は香りが重要な要素だもん。石鹸とか洗剤もそうだし。お妃さまクラスが使う高級化粧品に入れるなら尚更。香りも何種類か用意して、全種買いしてもらわないと」
「全種買い?」
「そう。選ぶ楽しみがないとね。今日は白檀、明日はジャスミン、明後日はラベンダーとか、その日の気分で変えるのが楽しいんだってば」
「……わからん。まったくわからん」
景雲は、理解しがたいとばかりに頭を振った。女心や女が好むものなどは考えたことがなく、また考える必要もなかった。化粧品に関しても「使えればいいだろう」としか思わない。
「ああ、頭が痛い。本当に頭痛がしてきた」
眉間を押さえてうめく景雲に、凜華は待ってましたとばかりに目を輝かせた。薬箱をガサゴソと探り始めた。
「だったら今すぐ鎮痛剤を作るよ。成分はアセチルサリチル酸に近い効果を持つ柳の皮のエキスを濃縮して……」
「誰のせいだ、誰の!」
皇帝の怒声が殿内に虚しく響いた。
結局、景雲は凜華に最後通牒を突きつけた。
「予算は無限ではない。今回は尻拭いをしてやるが、以降の超過は認めん。後宮内に生えている植物類は自由に採ってよいが、その他は自分で稼いで材料を買え」
「はーい」
凜華は気にしてないのか、実に軽い返事をした。
「わかったから。そんなにプリプリしないでよ。今日はおいしい飲み物を持ってきたんだから」
とにかく機嫌を直してもらおうと取り出したのは、琥珀色の液体が入った小瓶と炭酸水の入った容器だった。
戸棚から皇帝専用の瑠璃圷、コバルトブルーの美しいグラスを持ってくると、両方を注いで混ぜた。
「はい。陛下専用薬用酒のソーダ割り、名付けて『後宮ジンジャーサワー』だよ。どうぞ」
景雲は疑わしげにそれを受け取ったが、シュワシュワとはじける泡と、ハーブの爽やかな香りに誘われて一口飲んだ。
「……む」
喉を通る爽快な刺激。薬用酒の独特の苦味を、炭酸が軽やかに洗い流し、暑さと怒りで火照った体に冷たい感覚が染み渡る。喉から胸にかけて、すっと涼しくなる。
「ね? おいしいでしょ?」
「……まあな」
飲みながら、景雲はノンアルサワーの美味さは認めた。
「これはよいが。大体、お前というやつは……」
さらに説教を続けようとしたが、目の前で「いい飲みっぷり!」と満面の笑みを浮かべる凜華の顔を見ると、口から出かけた辛辣な言葉はどこへやら……。ソーダ水と一緒に胃の腑に落ちてしまったようだ。
「……」
この笑顔に毒気を抜かれて許してしまうのも、研究費がかさむ原因の一つではないかと、彼は密かに自省した。




