第38話 炭酸を使って玉印を救出するぞ<下>
一行がたどり着いたのは、外廷の北西に位置する、重厚な石造りの一角――尚方監である。
そこは、他の官庁とは明らかに異なる空気を放っていた。
中からは金属を叩く高く鋭い槌音が絶え間なく響き、炭の焦げる匂いと、金属が溶ける独特の重苦しい熱気が流れてくる。
「ここが尚方監ね」
凜華がひとりごちる。
豪華絢爛な宮殿の裏側で、金銀細工の加工品や美術品といった皇帝の権威を物理的に形作る職人たち。その執念が凝縮された場所。
現れた美貌の皇帝とその横に並ぶ凜華に、現場の視線が集中する。あれが、陛下が溺愛しているという侍妾、薬師の女か。確かに美人ではあるが……と興味津々だった。
金属加工室に入ると、中は熱気と白煙が立ち込め、汗だくの職人たちが立ち働いていた。皇帝と知って慌てて跪く職人たちの列の先、問題の「軟銀」を満たした巨大な壺が一行を待ち構えていた。
壺の前まで行くと凜華は言った。
「お待たせしました。これからちょっとしたマジックを行います。手品です」
凜華は野次馬たちの視線を受け流しながら、持ってきた大きな壺を並べさせた。
「準備はいい? まずはこの壺の温度を最高まで上げて。軟銀の流動性を極限まで高めるのよ」
指示された職人たちが火鉢に燃料を足し、風を送る。銀色の液面がさらに滑らかに、光を弾く鏡のように照り輝く。
「よし。では、今から『気体の爆発』を起こします」
凜華は、あらかじめ熱い湯で限界まで濃く溶かしておいたクエン酸の溶液と、同じく高濃度の重曹の溶液が入った壺を持ち上げた。同時かつ正確に、玉印の真上を狙って注ぎ入れた。
――液体が沈んだ次の瞬間。
穏やかだった銀色の液面の底から、突如として凄まじい爆発が起こった。
それは火薬の爆発ではなかった。
熱せられた高密度の液体金属の中で、重曹とクエン酸が激しく反応し、数万、数億という二酸化炭素の微細な気泡が一気に発生したのである。
通常、液体金属の中では気体はすぐに押し潰されるが、これほど急激かつ大量の発生は、液体の内部に「気泡のクッション」を作り出した。
気泡は玉印の表面にびっしりと付着し、重い金属液を内側から力強く押し分け、透明な浮袋を装着したようにして玉印を垂直に押し上げたのだ。
銀色の波を割り、漆黒の塊が一切の物理的接触を介さずに液面へと躍り出た。
「おおおっ……! 浮かんだ」
「龍だ! 龍の証が雲を呼んで昇天したぞ!」
壺の周りに集まった職人たちが叫ぶ。
凜華はすかさず、火鉢の傍に置いて熱しておいた竹のトングで塊を掴み、素早く引き上げた。
「救出成功! 温度も下げずにバッチリ取り出したよ」
凜華が得意気に掲げながら振り返ると、加工室には地鳴りのような歓声が上がった。
救い出された玉印は、先帝の命で施されたという黒蝋の封印によって、相変わらず真の姿を隠していた。
「……随分汚れてるね。ついでに汚れも取っちゃおう」
事情を知らない凜華は、封印を積年の汚れであると考えた。
「待て、凜華。それは先帝の封印で……」
「ん? やめるの?」
景雲が制止しようとしたが、そこで迷いが生じた。
彼は彼で即位以来、この玉印に何が彫られているのか気になっていた。いったんは完成した玉印を、あえて塗り潰させたのはなぜか。これは封印を解く絶好の機会ではないのか。
「いや……剥がせるならやってくれ」と彼は言った。
「大丈夫、これも炭酸を使えばきれいになるから」と凜華は自信たっぷりに言った。
玉印はさっきまで熱い「軟銀」の中にあった。この熱で蜜蝋はすでにドロドロに柔らかくなっている。
凜華は、玉印に重曹の粉をしっかりまぶした。重曹は油分と反応して石鹸のような働き(乳化)をし、蜜蝋の表面に馴染む。
器に、壺に残っていた高濃度のクエン酸溶液を注ぎ、まだ熱を帯びた玉印をドボンと浸す。
凜華が放り込んだ瞬間、器の中は沸騰したかのように泡立ち、シュワシュワという激しい音が鳴り響いた。酸の力と、残留した熱によって再び発生した微細な気泡の振動が、漆と蜜蝋の混じり物を、ペリペリと脱皮するかのように剥がし落としてゆく。
数十秒後、泡が落ち着くと、液の底にはボロボロになった黒いカスが沈み、純白の翡翠の玉印が姿を現した。
「すげえ……」職人たちが目を丸くして感嘆する。
凜華は玉印を取り出し、布で丁寧に拭くと
「はい、陛下。お宝が返ってきたよ」
と景雲に手渡した。
「でかしたぞ凜華」
景雲は興奮を抑えきれないまま、窓辺に移動した。
受け取った玉印の底を窓から差し込む光に透かした。
そこには、先帝が遺した言葉。これまで誰も見たことのない「文字」が刻まれているはずだった。
ところが――。
「……ん?」
玉印の平面を見た景雲の顔が、凍りついたように固まった。驚愕、それから何か深い悲しみ、あるいは恐れのようなものが次々と浮かんでは消えた。
「陛下、なんて書いてあるの? あなたの名前?」
この国の文字は不得手な凜華が、無邪気に玉印を覗き込む。円と波線と点を組み合わせたような不思議な羅列。意味はわからない。
「……」
景雲は答えなかった。
彼はまるで毒蛇でも掴んだかのような手つきで、玉印をぎゅうと強く握りしめた。平面が見えないように手のひらで覆った。
「……他言無用だ」
その声は、冷たく重かった。
皇帝のただならぬ様子に、周囲の歓声がピタリと止む。
「今日ここで何を見たか、聞いたか。この場にいる全員に一切の口外を禁ずる。破れば厳罰に処す」
思いつめたような顔。非情な覚悟にも似た――何か。
「これは……先帝の呪いだ。以後、一切触れてはならぬ」
「えっ」
予期せぬ命令に一同は困惑した。
先帝から受け継いだ玉印が呪いとは一体どういうことなのだろう。本来は皇統の正統性を証明するものであるはずだが……。
加工室を満たしていた熱気は瞬く間に冷え込み、重苦しい沈黙だけが降りた。
景雲は玉印を握りしめたまま、すたすたと出口に向かって歩き出した。懐から手巾を取り出すと、玉印を包み乱暴に胸元にねじ込んだ。
「陛下……?」
凜華の呼ぶ声も、彼には聞こえてないようだった。
室内には器に残った炭酸の、弾けるような泡の音だけが響いていた。




