第37話 炭酸を使って玉印を救出するぞ<中>
景雲は李元と尚方監の長を伴って、後宮へと赴いた。
しばらくすると陽気な足取りで、薬箱を提げた凜華が長楽殿にやってきた。開口一番に言った。
「陛下、昼間から来るなんて珍しいね。もしかしてお疲れ? 今日は最高にスカッとする飲み物を作って持ってきたわ」
凜華は、荷物から陶器の瓶を取り出した。直前に作ったシュワシュワとはじける果実ソーダである。
「今はそれどころではない。凜華、話を聞け」
景雲はソーダ水を退け、目で促した。
監長が前に出て、必死の面持ちで事件のあらましと、現在の「物理的制約」を凜華に説明した。
まず異常な密度。玉印は、本来は液体金属の浮力で表面に浮いてくるはずだが、漆と蜜蝋のコーティング(比重が極めて軽い)のせいで、逆に液面の表面張力や粘性に阻まれ、少し沈んだ位置で不安定に浮遊していると思われる。
次に温度の壁。道具を入れた瞬間に凝固が始まり、玉印を「金属の琥珀」にしてしまう。
最後に破壊は不可能なこと。壺を壊せば、すべてが台無しになる。
説明を聞き終えた凜華は、腕を組んでしばらく考えていた。やがて、ふむふむと頷いた。
「按ずるに……液体金属の浮力と表面張力に阻まれて、手出しができないわけだ。『冷やさず、直接触れず、重い液体の中から軽いものを浮上させる』。あるいは『金属を溶かしたまま、一気に移動させる』……そうでないと取り出せないわけね」
監長が絶望的な声を上げる。
「その通りですが、土台無茶な話です。道具はどれも冷たい。熱しておいたとしても、玉印に触れた瞬間に熱を奪われる」
「……難しいけど、チャンスはゼロじゃないよ。浮かんだ玉印を一瞬ですくえばいけるんじゃないかな。たぶん解決策はあるわ」
凜華は、自分が持ってきた水筒を見つめた。
「陛下、少し時間をもらってもいい?」
「何をする気だ」
「クエン酸を山ほど作らないといけない。柑橘類や石灰、硫酸が必要。あっ、重曹も沢山ちょうだい。精製を手伝ってくれる人手も欲しい」
「いくらでも用意させる。……李元」
景雲が目配せすると宦官たちが頷き、人と物資を集めるために一斉に出て行った。
その日のうちに、大量の物資がかき集められ凜華の部屋の前に積み上がった。
事態は一刻を争う。凜華は宦官たちに大量の果実を搾らせた。昼夜を問わず働き、数日で必要なクエン酸を精製した。重曹と合わせて材料が揃うと景雲に言った。
「準備ができたよ。軟銀の壺をこっちに持ってきてくれる?」
「いや、それはできぬのだ」
景雲は苦々しそうに言った。
今回もやってきた尚方監の長が、代わりに説明した。
「『軟銀』は、火鉢の熱から数寸離れただけで凝固を始めます。運ぶのであれば輿に乗せている間も加熱し続けねばなりませんが、振動で液面が揺れればその拍子に玉印が壁面に触れて固着する恐れがあります。一度固まれば、二度と無傷では取り出せないでしょう」
「ふーん。だったら私がそっちに行くわ。現場百回って言うしね」
凜華が言うと、景雲は悩ましげに首を振った。
「だめだ。お前を外廷に出すわけにはいかん」
「え、なんで? 玉印だか判子だかを取り出さないと、陛下の政治的生命が危ういんでしょ」
「それはそうだが……お前は後宮の女だ。外へ出すのはしきたりに反する」
景雲の脳裏をよぎったのは、むさ苦しい尚方監の職人や、血気盛んな衛兵や武官たちの顔である。
凜華は(実のところはどうなってもいないが)、一応にも皇帝の侍妾である。彼女が外廷の男たちの好奇の視線に晒されるのは嫌だった。存在は知られていても、本人を特定されるようなことはしたくない。これは自分のものだ。常に後宮に納めておくべきだし、接する男は自分一人だけでいいと本気で思っている。
何より、この自由奔放な女は外の空気を吸った瞬間に「じゃ、さよなら!」とばかりに脱走するのではないかという妙にリアルな不安があった。
「陛下。道具を動かせないなら、人が動くしかないよ。それとも玉印が沈んだままでいいの?」
「……」
景雲は逡巡した。独占欲と切羽詰まった難事の解決を天秤にかけたが……早々に諦めた。今回ばかりは後者を優先するしかない。
「……わかった。ただし、私の同伴としてだ。側を離れるなよ。よいな」
「はいはい、了解です」
凜華の返事の軽さに、景雲は「逃げるなよ」とまるで迷子を心配する親のような念押しをした。
「逃げないってば。薬師房の薬も使い倒してないし、まだ注文してない材料もあるし。ここより薬作りにいい環境はないんだから」
凜華は呑気に笑いながら、薬箱を肩に担いだ。
烈日が灰色の石床を焼き、地表からは逃げ水がゆらゆらと立ち上る。
皇帝の一行は女たちの香煙が立ち込める後宮を出て、男たちの野心が渦巻く外廷へと足を踏み入れた。
外廷と内廷の境界線、後宮の優美な装飾が施された「垂花門」をくぐり抜けると景観は一変した。
しだれ柳が揺れる穏やかな庭園が消え、眼前に現れたのは、威厳に満ちた朱塗りの巨柱と、天を突く金色の瓦屋根が連なる壮大な官庁街だった。
視界が開けるにつれ、辺りの音の密度が跳ね上がる。重厚な石畳の上を、足早に行き交う官吏たちの靴音が響く。
山のような木簡や書状を抱えた若い書記官、紫の官服を翻して国政を論じる高官、鎧の擦れる音を冷たく鳴らす警備の兵士たち、それらに続く馬丁。馬の汗と鉄錆、男たちの熱気に満ちている。
後宮が女たちの世界であるなら、外廷は男たちの領域。
そこは、情報の奔流と権力の均衡が交錯する生々しい「国家の心臓部」であった。
突如として現れた皇帝。そのすぐ傍らを、堂々と歩む一人の若い女――凜華の姿に、喧騒は一瞬静まり返ったかのように見えた。次の瞬間、それは蜂の巣を突いたような密やかな囁きへと変わる。
凜華は下女の綿衣を纏っている。身なりからして身分は下の下。なのに、皇帝と共に歩むことが許されるとは……。
官吏たちの視線は、剥き出しの好奇と、隠しきれない嫉妬、得体の知れぬ畏怖を含んで彼女に突き刺さる。
「あれが……噂に聞く『後宮の薬師』か」
「陛下が片時も離したがらないという侍妾。政務の場にまで連れ出すとは正気とは思えぬ」
「……それを言うなら、先帝陛下のあの男妾とてどうなのか。異常も異常であったわ。親子の血は争えぬもの」
「しっ、声が大きいぞ」
「なんという不敵な面構えだ。陛下を薬の知識でたぶらかしているという噂も、あながち嘘ではあるまい」
行列とすれ違う官たちが慌てて跪き、頭を垂れながらも、視線は蛇のように床を這い、凜華の裾を追いかける。
彼らにとって、彼女は単なる薬師ではなかった。皇帝の寵愛を一身に受け、国政の決断にさえ影響を及ぼしかねない女――そう映っていた。




