第36話 炭酸を使って玉印を救出するぞ<上>
さて、中世の錬金術師たちが、卑金属を黄金に変えようとして鞴を吹き鳴らしていた頃、彼らが最も愛した魔法の金属の一つに「ビスマス」がある。
この金属、冷え固まれば虹色の幾何学的な階段状の結晶を作るという、なんとも未来的な美的センスの持ち主だが、鉛や錫と混ぜ合わせると、お湯程度の温度でドロリと溶ける「低融点合金」に変身する。
この軟派な銀色の液体に、帝位の正当性を示す玉印が沈められようとは、作らせた先帝もまったく想定しなかったに違いない。
後宮の初夏は、不条理なまでに暑かった。
石畳の回廊は昼間の熱を容赦なく蓄え、夜になっても湿った熱気が肌にまとわりつく。
凜華にとって、この湿熱地獄は前世の実験室での徹夜よりも過酷な試練であった。
「暑い……。暑すぎる。何も転生先まで高温多湿でなくたっていいじゃない。扇風機もクーラーもないのに。脳みそが沸騰しそう……」
自室の寝台に転がって、力なく呟くばかりである。
傍らでは寿寿が、文字通り「死んだ魚の目」をしてうちわを忙しなく動かしている。
「凜華さん、冷たい井戸水を汲んできますね。あと果実も貰ってきて果実水でも作ります。何か、こうスカッとするものがあればいいんですけど……」
「スカッとするもの、ねぇ……」
その言葉に、凜華はひらめくものがあった。
「そういえば、こっちでは『炭酸』を見ないわね。ないのかな?」
「たんさん、ですか?」
「でも、化学的に作り出すことは可能なはず……。炭酸泉が近くにないなら、酸と塩基を反応させればいいんだから」
凜華は「よっしゃ!」と叫びながら跳ね起きた。
思い立ったが吉日である。涼気を得るために、炭酸水を作ることにした。
まずは、柑橘類を大量に調達し、そこからクエン酸を精製する。幸いにも、後宮の厨房には柚子などの柑橘類が山ほどあった。これらを絞った果汁に石灰(炭酸カルシウム)を加えると、クエン酸カルシウムが沈殿する。このクエン酸カルシウムを回収し、硫酸をかけると、今度は石膏(硫酸カルシウム)が沈み、クエン酸が液体に溶け出す。この液体を濾過し、硫酸を除いて濃縮すれば、純度の高いクエン酸結晶が手に入る。
硫酸は「緑礬油」と呼ばれ、その名の通り緑礬と呼ばれる硫酸鉄、緑色の鉱石を熱して作る。硫酸は金属の製錬、精錬ですでに使われているため、注文すれば手に入るのがありがたかった。
次に必要なのは、アルカリ性物質だ。
「寿寿、『天然のソーダ粉』重曹を持ってきて」
「あ、掃除に使う白い粉ですね」
寿寿が重曹の袋を運んでくると、材料は揃った。
凜華は、水の中にまずは精製したクエン酸を溶かした。そこに、慎重に重曹(炭酸水素ナトリウム)を投入する。
するとシュワァァァァと、無数の銀色の泡が沸き立った。
「う、うわぁぁっ? 凜華さん、お水が怒ってます!」
「怒ってるんじゃないわ。これこそがスカッとする飲み物の筆頭、炭酸よ。飲めば爽快感抜群」
凜華は、濃厚な果実水にこの「人工炭酸水」を注ぎ、地下の氷室から取ってきた氷の欠片を放り込んだ。
「ほら、飲んでみて」
寿寿が恐る恐る口に含んだ瞬間、その目が限界まで見開かれた。
「……わっ! は、鼻に雷が落ちました! でも……おいしい! 喉を通る時のピリピリが最高! 暑さを忘れそう」
「でしょ? 炭酸水があればどんな暑さも乗り切れるわ。そうだ、これは陛下にも献上しなくちゃね」
凜華と寿寿が自家製ソーダを楽しんでいる、その頃――。
外廷にある、皇室の工芸品や祭具、武具の制作を担う精鋭工房「尚方監」では、まさに国家を揺るがす未曾有の大事件が起きていた。
「……盗まれた、だと?」
皇帝・景雲は、報告に来た尚方監の長の顔を、氷のような視線で射抜いた。ひれ伏した長は、床についた手をぶるぶると震わせながら言った。
「はっ……。先帝陛下より受け継がれし、陛下の正当性を示す唯一無二の玉璽『黒蝋玉印』が、侵入してきた賊に奪われてしまい……」
この黒蝋玉印は、景雲の父である先帝が崩御する少し前に作らせた特殊な印章であった。
平面には文字が彫られたようなのだが、何があったのか漆と蜜蝋を混ぜ合わせたような黒い液体を塗り込んで固めてあり、文字は読めなくなっていた。
当時の設計図も残っておらず、なんと書かれているかはわからない。黒蝋を剥がすこともできず、まさに封印されたといっても過言ではない秘密の玉印だった。
宝物庫から玉印を盗み出した男は、尚方監へ逃げ込んだが、すぐに追い詰められ捕縛された。
そこで観念した男は……。
「口の中に仕込んであった毒を噛み、自害いたしました。しかもいくら調べても盗んだ玉印を持っておらず。目撃者の話によると、最後に逃げ込んだ『金属加工室』で……」
男を追い詰めた衛兵たちは、工房の一角にある巨大な青銅の壺の前で立ち尽くした。
壺を満たしていたのは、特殊な精密工芸に用いる「軟銀」。
これは現代で言うところの「ウッド合金」に近い。ビスマス、鉛、錫、カドミウムなどを主成分とした低融点合金である。
軟銀は、下の火鉢で温められている間だけは銀色の液体を保つ。融点は極めて低く、人肌より少し熱い程度で溶ける代わりに、少しでも温度が下がれば瞬時に鋼のような硬度を持って凝固する。
犯人の男はよりにもよって、この熱い液状金属の壺の中に玉印を投げ込んだのだ。
「網や匙ですくい出せば良いではないか」
景雲のもっともな提案に、監長は青ざめた顔で答えた。
「それが……軟銀は水よりもはるかに密度が高く、網やおたまを差し込もうとしても凄まじい浮力で跳ね返されるのです。無理に押し込もうとすれば、道具そのものの冷たさにより、周囲の金属が固まってしまい。玉印を金属の塊の中に閉じ込めてしまいます」
「壺を割って取り出すわけにはいかぬのか」
「壺を割れば、熱い軟銀の液が床一面に広がり、即座に固まってしまいます。玉印は床の一部となり取り出すことはかないません」
触れることも、動かすこともできない厄介な金属の檻。
先帝のなんらかの意志を封じ込めた玉印は、軟銀の中に沈んでしまった。
「いかがしたものか……」
景雲は、額に手を当てて困り果てた。
何せ自分の皇位を証明する玉印である。これを所持しているからこそ、自分はこの国の皇帝を名乗れるのだ。
盗難や紛失したと知られれば、どんな厄介ごとが起きることか。
深い溜息とともに、思い出したのは一人の女だった。
困った時の薬師……ならぬ、困った時の凜華。あれに相談してみるか。
彼は顔を上げると、傍らの宦官を呼んだ。
「……李元。後宮へ行く。凜華を呼べ」




