第35話 みんな忘れてるけど酒も神経毒だからね<下>
「さて、今後の代替品が決まったところで、本物の酒とはお別れだな」
景雲は、凜華に取り上げられていた銀の酒壺をスッと引き寄せると、盆から新しい杯を取り出した。
「では飲み納めだ。お前も相伴せよ」
「えっ? 私も?」
「お前が私から酒を取り上げたのだ。最後くらい付き合え」
「仕事中なんだけど」
景雲は意地悪く微笑むと、杯に少しだけ酒をつぎ、凜華の前に差し出した。
「舐める程度でいい」
「えー。……まあ、一杯くらいなら」
凜華は仕方なく杯を受け取った。
前世ではそこそこ酒には強かった。飲み会も普通にハシゴしていたし、足取りがおぼつかない友人や同僚を、駅や近場まで送っていったことも一度や二度ではない。
一杯でどうこうなることはないだろう。それに無下に断って不機嫌になられても面倒だし、と軽く考えたのである。
凜華は差し出された杯の酒を、くいっと飲み干した。
「なかなかいい飲みっぷりではな……」
景雲が言いかけた次の瞬間である。
――ドクン。凜華の心臓が、耳元で鳴るほどに大きく跳ねた。全身の血が一瞬にして沸騰したかのような猛烈な熱さ。目の前がぐにゃりと歪み、視界がぐるぐると高速回転を始める。
「え……? 何これ……」
「凜華? どうした、顔が真っ赤だぞ」
景雲の怪訝そうな声が、水底から響くように遠く聞こえる。
「……へい、か……わたし、ちょっと、へんかも。せかいが……」
凜華は言い終わるが早いか、その場に仰向けに倒れてしまった。
チュンチュンという爽やかな小鳥のさえずりと共に、凜華は重い瞼を開けた。頭がガンガンと痛む。口の中はカラカラで、酷い二日酔いのような症状だ。
「……ううっ」
身じろぎをすると、自分がひどく柔らかく、滑らかな絹の感触に包まれていることに気づいた。自室の寝台ではない。
ゆっくりと視線を横に向けると、そこには、無防備な寝顔を晒す国宝級の美貌。息のかかる距離に景雲の顔があった。
「……はい?」
なんじゃこりゃ? 凜華の思考は完全にフリーズした。
ここが長楽殿の寝所……なのはわかる。昨夜は確かにここへ来た。
なのに、今いるのは皇帝の寝台。そして、隣には寝巻き姿の景雲が寝ている。
ガバッと跳ね起きた凜華は、慌てて己の衣服を検めた。特に乱れた様子はないが……。
「ひ、ひぃぃぃッ! ちょっと陛下! 起きて!」
凜華の素っ頓狂な悲鳴に、景雲はうーんと唸った。ゆっくりと目を開けた。
「……なんだ。朝から騒々しい」
「どういうこと。なんで、なんで私が陛下のベッドにいるの!」
髪をかき上げながら、景雲はふわあと大あくびをした。
「お前が突然ぶっ倒れたからだろう」
彼は昨夜、突然倒れた凜華に驚き、すぐさま李元たちを呼んだ。彼らも当初はあれこれと心配したが、凜華自身に変わったところはなく、大の字になってぐーぐーと寝ているだけ。
「恐れながら、これは酔って寝ているだけでは?」と李元に言われ、なら大丈夫かと考えた次第だった。
そのうち目を覚ますだろうと思い、湯浴みに行った。更衣を終えて戻ってくると、凜華が目を覚ました気配はなく寝台に寝かされていた。宦官たちが気を利かせて、もしくは侍妾ならば当たり前のこととして、彼女を閨に運び入れたのである。
寝台で眠りこける凜華を前にして、景雲はしばし立ち尽くした。
「えっ……これ、どうしよう」と思わないでもなかったが……今更床に落として転がしておくのも可哀想だし面倒だったので、そのまま一緒に寝てしまったのだった。
「にしたって、なんで同衾してるのよ。ま、まさか、意識のない私に……?」
凜華が身構えると、景雲は身を起こし、呆れたように大きなため息をついた。
「自惚れるな。何もしていない」
「ほ、ほんとに? ほんとに何もしてない?」
「寝込みを襲うほど女に不自由はしていない」
景雲の口調は冷淡だったが、その言葉には真実味がこもっていた。元から女はよりどりみどりなのに、わざわざ薬師を襲うメリットはない。
寝所に入ってしまえば朝まで二人きり。外には出られないのだ。その気があるなら、凜華はとっくに彼のものになっていた。
「寝てしまったお前を、床に放置するのは忍びなかった。だから、ここに寝かせてやったのだ。感謝こそすれ、疑われる筋合いはない」
「……そう。だったら信じるわ。ご迷惑をおかけしました」
「それにしてもだ」
景雲が、面白そうに目を細めて凜華を見た。
「まさか一杯で失神するとは。お前は極めて酒に弱いのだな。昨夜は肝を冷やしたぞ」
「うっ……面目ないです」
凜華は両手で頭を抱えた。
前世では普通に飲めたため油断していたが、転生した少女の肉体はそうではないようだ。
おそらくは恐ろしく酒に弱い体質であり、アルコールを分解する酵素(ALDH2)を殆ど持たないのではなかろうか。
どんなに前世の医学知識があろうとも、食生活や生活習慣を改善して健康を維持できようとも、遺伝的な「体質」は変えられない。
もし、一緒にいた相手が景雲ではなく、自分に悪意を持つ人物だったら今頃どうなっていたかわからない。
「今後は、絶対に酒は飲みません。一滴も飲まないから!」
凜華が拳を握りしめて宣言すると、景雲はくつくつと可笑しそうに肩を揺らして笑った。
暗殺未遂事件以来、彼が声を上げて笑ったのは初めてのことだった。
「確かに酒は毒だな。お前にとっては特に。それがわかってよかったのではないか」
「まったくだわ。あ、このことは内緒にしてね」
「無論」
誰が漏らすものかと景雲は思う。自分が何者かに命を狙われている以上、自分を助ける可能性がある凜華もまた狙われる可能性が高い。暗殺者からすれば、薬師を仕留めた後に皇帝を害する方が確実だ。
彼女の弱点を吹聴するなど愚の骨頂。むしろ守りを固めなくては、と密かに決意するのだった。
ところで、と凜華は話題を切り替えた。
「陛下、昨日は足湯もツボ押しもしてないけど、すんなり眠れたの?」
「いや、横になってから寝付くまで一刻ほどかかったな。夜中にも何度か目が覚めた」
眠りにつくまでの間、そして夜中に目覚めるたびに彼は隣りでだらしなく眠りこける凜華を眺めた。これは珍妙な女だが、寝顔は存外可愛らしいとも思った。
景雲の気も知らず、凜華は顎に手を当てて思案する。
「うーん、中途覚醒するのか。まだだめだなあ……」
「そうだ。だめなのだ。今後も私を眠らせるために精進するのだな。ワーホリとやら」
「はいはい、わかってますよ。だから陛下も、今日からはちゃんと薬用酒を飲んでね」
朝日が差し込む寝台の上で、二人は顔を突き合わせた。それから、ふふっと笑い合ったのだった。




