第34話 みんな忘れてるけど酒も神経毒だからね<上>
さて、中国古代の聖王・禹は、儀狄という者が造った美酒を飲んで「後世、必ずこの甘露によって国を滅ぼす者が出るだろう」と予言して酒を禁じたという逸話があるが、いつの世も最高権力者というものは、プレッシャーの捌け口としてこの褐色、もしくは琥珀色の液体に頼りがちである。
異世界を生きる凜華の目下の悩みの種も、ストレスから酒浸りになりつつある皇帝であった。
毒による暗殺未遂事件が起きた夜以来、皇帝・景雲の周囲は目に見えない分厚い暗雲が垂れ込めているようだった。犯人は依然としてわからない。外廷でも内廷でも、事件を知る者は不安がっている。
景雲は特に何を言うわけでもなかったが、憂鬱そうな顔で過ごすことが増えた。それに比例するように、日毎の酒量も増えていったのである。
「……陛下。また飲んでるんですか」
その夜、長楽殿の寝所へとやってきた凜華は、入室するなり長椅子に横たわる景雲を睨んだ。
室内には濃厚な酒の匂いが漂っている。
卓の上には見事な装飾が施された銀の酒壺が幾本も転がっていた。
「遅いぞ、凜華。……なんだ、その小言を言いたげな顔は」
景雲は、少しだけとろんとした色っぽい目を凜華に向け、気怠げに杯を揺らした。
「小言も言いたくなるよ。寝所でも飲むなんて。みんな忘れてるけど、酒も立派な『神経毒』なんだからね」
「毒、だと?」
「そうだよ。アルコール、つまりエタノールは脳の神経細胞を麻痺させる薬物の一種。理性を司る大脳皮質を麻痺させるから一時的に気が大きくなったり、嫌なことを忘れたりした気になるだけ」
凜華は薬箱を床に置き、ずいっと景雲に詰め寄った。
「アルコール中毒や肝硬変、酒が原因でおこる病気のリスクもあるし。あとあなたの場合は『不眠』もあるし」
「飲んで潰れてしまえば眠れるではないか」
「陛下は潰れないでしょ。寝酒は寝付きを良くするように錯覚させるけど、実際には睡眠の質を著しく下げる。途中で目が覚めやすくなるし、深い睡眠がとれないから余計に疲れが溜まる。ただでさえ不眠なのに、これでアル中になったら元も子もないわ」
凜華の立て板に水のような医学的説教に、景雲は噛みつくように言った。
「たかが酒くらいで大袈裟な。お前のせいでいい気分が台無しではないか。晩酌にまで口を出すな」
「酒飲みはみんなそう言うね。そうやって誤魔化し誤魔化ししてるうちに、取り返しのつかないことになるよ」
景雲はふて腐れたように顔を背け、再び杯に手を伸ばそうとした。皇帝とて人間なのに。酒の酔いに逃げることすら許されないのか。そんなひねくれた感情が、美しい横顔に張り付いている。
凜華は小さくため息をつき、銀の酒壺をサッと取り上げた。
「返せ」
「だめ。あのね、私がこうして口うるさく言うのは、薬師だからってだけじゃないよ」
凜華は、景雲の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「陛下は、私にとって大事な人だから」
ピタリと景雲の動きが止まった。
「は?」
「だから、大事なパトロン……もとい治験者でもあるし、この世界で一番頼りにしてるんだから。体を壊して死なれたら困るの。もっと自分を大切にしてくれなきゃ」
前半の言葉の甘さを、後半の打算が見事にぶち壊しているが、景雲の耳には「大事な人だから」「一番頼りにしている」という部分だけが奇妙なエコーを伴って響いていた。
アルコールで大脳皮質が麻痺すると、「都合のよいことしか聞こえない」という確証バイアスが強化されるのかもしれない。
「ふん。勝手な言い草だ」
景雲は不機嫌そうに吐き捨てたが、その実まんざらでもない……どころか、不意打ちの殺し文句に見事に動揺している。
「そこで、私からの提案です」
凜華はニヤリと笑い、薬箱の他に背負ってきた荷物から、水筒のような陶器を取り出した。
「じゃーん! 酒によく似た味でありながら、自然の食材と生薬だけで作られた、いくら飲んでも身体に負担がかからない究極のノンアルコールドリンク。名付けて、『凜華式・皇帝専用琥珀ジンジャー薬用酒』を作ってきました!」
「代替品か。また長い名前だな」
「材料は完璧よ。まず炒り黒豆。これで深いコクと琥珀色を出し、アントシアニンによる抗酸化作用を狙う。次に大棗。ナツメね。天然の甘みを加え、精神を安定させて滋養を与える。そしてここが重要! 乾姜、つまり生姜をたっぷり。これがアルコール特有の『喉がカッと熱くなる感覚』を完全再現し、血流を促進。さらに山査子を加えてフルーティーな酸味を出し、消化を助けて血を巡らせる。最後に肉桂、シナモンスティックを入れて香りのアクセントをつける。これらをじっくり煮詰めた至高の薬用酒です!」
凜華は得意げに説明しながら、陶器に入っている琥珀色の液体を景雲の空の杯に注いだ。
匂いを嗅ぐと、確かに熟成された果実酒のように深く芳醇である。
「……ただの薬湯ではないか」
景雲は半信半疑で杯を口に運んだ。
一口飲んだ瞬間、彼の目が驚きに見開かれた。大棗の自然な甘みと山査子のフルーティーな酸味が舌の上で広がり、その直後、乾姜のピリッとした熱い刺激が喉の奥を焼くように通り過ぎていく。
鼻に抜けるシナモンと炒り黒豆の香ばしさは、まるで長年樽で寝かせた銘酒のような深い余韻を残した。
一気に飲み干した後、彼は言った。
「これは……確かに、酒に酷似している。喉を焼く熱さも胸のすくような香りも。しかも体が温まってくるような」
「でしょ? 血行が良くなるから、リラックス効果も抜群。肝臓へのダメージはゼロ、むしろ疲労回復効果あり」
どうだとばかりに凜華が胸を張ると、景雲は手酌で幾度か杯を傾け、やがて満足そうに息をついた。
「……悪くない。いや、普通に美味いな。食事の際も寝酒も今後はこれを飲むか」
景雲の率直な感想に、凜華はホッと胸を撫で下ろした。これを飲んでくれるなら、皇帝のアル中や肝硬変のリスクは大幅に軽減するはずだ。
「よかった! 大膳房にもレシピ伝えておくね」
「これは私専用なのだな?」
「そうだよ。あなたのために作ったんだから。エリクサーみたいなもん」
「えりくさーとはなんだ」
「エリキシル剤、アルコールが入って甘味や香りを加えた内用液剤のこと。でもこれはノンアルだし。仙丹とか霊薬って言った方がいいかな」
「……仙丹のような酒か」
景雲は凜華の答えに満足した。皇帝しか飲めない薬用酒、それも不老長寿のような作用があるなら尚のこといい。




