第30話 皇帝の服を染める工房が爆発しちゃった<一>
さて、中国・明の天啓年間に北京で起きた「王恭廠(火薬庫)の大爆発」は、キノコ雲が立ち上り空から人体のパーツが大量に降ってくるという、原因不明にして中国史上最大級のトンデモ爆発事故として記録されている。
古来より火薬や燃える物質というものは、人間のちっぽけな想定など軽々と飛び越えるものだが、異世界の後宮においても、その物理法則はきっちりと機能していた。
皇帝の毒殺未遂事件、それに利用された挙句、口封じで殺されたらしき剽娘の一件があって以来、凜華の気は晴れなかった。
現代日本の薬学知識を持つ彼女には、一人でも多くの患者を助けたい気持ちがある。しかし、後宮という閉鎖空間で渦巻く権力闘争と悪意は、彼女の医術が届かないところで容赦なく人命を刈り取っていく。その無力感は言葉では言い表せない。また捜査が始まったため、剽娘のことは一切口にできなかった。
「はぁ……なんだか嫌になっちゃうね」
とぼやきつつも、凜華は自他共に認める重度のワーカーホリック。憂鬱な気分になろうとも、目の前には診察を待つ患者がおり、薬研で粉砕すべき薬草の山もある。手を止める暇など一秒たりともない。
そうして忙しく過ごしていた真昼間のことである。
突如として、ズドオオオオンッという敷地を揺るがすような凄まじい轟音が響き渡った。ビリビリと窓枠が震え、棚から小瓶がいくつか転げ落ちる。
「ひぃぃッ! な、何事ですか?」
寿寿が悲鳴を上げて頭を抱えた。
「爆発音……? 今の南の方角からよ」
凜華が窓から身を乗り出すと、後宮の南側――衣服や寝具などの布類全般を管理・制作する「染織局」の後宮版「染織房」の建物が立ち並ぶあたりから、もうもうと煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
「何が起きたのかな。火事かな?」
「でも火事ならもっと煙が出ますよね」
二人して目を凝らしてもよくわからない。
数分後、顔が真っ青の下女が駆け込んで来た。染織房に勤める女で、何度か薬を貰いに来ている。
染織女たちは、端切れで作った座布団や花瓶敷を礼品として持ってくる。凜華の部屋は、彼女たちの作品でこじゃれた雰囲気になっていた。
「や、薬師さま! 大変です、染織房の倉庫が爆発して怪我人が出ています。どうか助けてください」
「わかった、すぐ行くわ。寿寿、留守番をお願いね」
「はいっ」
凜華は薬箱を肩に引っ掛けると、下女の後を追って駆け出した。
染織房に隣接する倉庫は、かろうじて建物の外観を保っていた。火災は起きていないが頑丈なはずの木造の壁は無残に吹き飛び、屋根瓦が周囲に散乱している。
焦げ臭い煙と、鼻を突くツンとした刺激臭が立ち込める中、爆発に巻き込まれたらしき一人の女官が地面を転げ回って苦悶の声を上げていた。同僚や部下とおぼしき女たちが囲んで、必死に身体を押さえようとしている。
「あああっ……! 痛い、痛いぃぃッ! 足が、足があああ――ッ!」
凜華は女官の傍らに膝をつき、すぐさま患部を確認した。
爆発の衝撃で吹き飛ばされたのか、衣服の裾はボロボロに裂けている。それ以上に目を引いたのは、女官の足や顔、衣服のあちこちに、べったりと付着している黄色の粉塵だった。
「これは……」
患部を見た凜華は息を呑んだ。ただの火傷ではない。皮膚は黄色く染まり、ズルズルと溶けるようにただれている。
「化学火傷を引き起こしてる……!」
衝撃を破るように、背後から声が降ってきた。
「あんた、ここで何してんのよ」
凜華が振り返ると、周但娘が立っていた。彼女も爆発音を聞きつけ、様子を見に先春殿から出てきたのである。
医家の女の出現、これこそ天の助けか。
「ああ、周但娘。いいところに。怪我人がいるの。手当てするのを手伝って!」
「はあ? なんで私が? 太医を呼べばいいじゃない。診てくれるか知らないけど。私は梅妃さまにお仕えす」
露骨に嫌がる但娘に、凜華はたまらず怒鳴る。
「いいから! 野次馬やってる暇があったら、助けなさいよ。手伝わないなら、私の顔を巴豆で焼こ――」
「ああ、わかったわかった。やればいいんでしょやれば!」
但娘は凜華の声を打ち消すように、慌てて怒鳴り返す。
こうなったら仕方ないと、やけくそ気味に袖をまくり上げた。
「水よ、とにかく水を沢山持ってきて。急いで!」
凜華の指示で但娘や周囲の下女が走り出す。
井戸からのバケツリレーで水桶が運ばれてくると、凜華は桶を奪い取るようにして女官の足に水をぶちまけた。
「ひぎぃぃッ!」女官が痛みで絶叫する。
「我慢して! 付着した腐食性物質を洗い流さないと……組織が死ぬわ!」
化学火傷の応急処置は、何をおいてもまず「大量の流水での洗浄」である。中和剤を探すよりも、原因物質を洗い流す方が先なのだ。凜華は躊躇うことなく水をかけ続け、女官の肌から黄色い粉末を落としていった。
水がかけられるたびに、女官は泣き叫び、身をよじって暴れる。
「但娘、口に布を噛ませて押さえて。舌を噛むといけないから」
「はいはい」
但娘が肩を押さえつけながら、口に柔らかな布を押し込んだ。医家で育っただけあって冷静かつ手際がいい。
自身も次々と運ばれて来る水桶を受け取り、バシャバシャと水をかけ続ける。
患部についた粉を洗い流したところで、凜華は薬箱から軟膏壺を取り出した。
「よし、次はこれ。『水火救急膏』よ。作っておいてよかった」
それは、ごま油に当帰と紫根、蜜蝋、大黄を加えて煮出した鮮やかな赤紫色の軟膏であった。大黄には強い消炎作用、紫根には優れた抗菌・抗炎症作用があり、ごま油と蜜蝋が患部を保護して皮膚の再生を促す。
現代日本でも家庭の万能薬として販売されている「紫雲膏」のルーツとも言える火傷や傷の特効薬である。
水と石鹸で手を洗った後、二人は軟膏を患部にたっぷりと塗りこんだ。但娘が慣れた手つきで均等に伸ばしながら言った。
「思ったより火傷の範囲が広いわね」
「うん。追加で救急膏を作らなくちゃ。ああ、熱が完全に引くまで、絶対に傷口を乾燥させてはだめ。布を被せて常に潤いを保ってちょうだい」
凜華は下女たちに指示を出し、後の処置を任せた。清潔な布を足に巻くと、女官のうめき声は次第に小さくなっていく。
数人がかりで抱き上げられて担架に乗せられると、宿舎の方へゆっくりと運ばれて行った。
「それにしても、なんなのこれは……。火薬?」
但娘が、服についた黄色い粉をじっと見ている。
凜華は立ち上がると、今度は黒焦げになった倉庫の残骸へと向き直った。




