第29話 トリカブトの解毒剤を作るぞ<四>
しばらくすると長楽殿の入り口が騒がしくなり、深く布を被った女が風のように滑り込んできた。絃楠だった。喉仏を隠すためか、首には襟巻のようなものを巻いている。
布の影から見える表情は硬い。
「陛下。恐れ入りますが、外へお出ましいただきたく」
景雲は絃楠について外へ出た。凜華も立ち上がり、後に続く。
長楽殿の近く、暗闇に包まれた用水路の傍らに人だかりができていた。
地面に何か転がっている。それは人の形をしていた。
宦官たちが水路から引き上げたのは、ずぶ濡れの女の死体だった。薄紫の長い上衣に薄紅色の裳袴、白と灰色の帯、髪に挿されているのは細かい彫刻を施した箸のような簪……大膳房の女官のいで立ちだった。溺死ではない。喉には、鋭い刃物で一文字に切り裂かれた跡があった。
「陛下の膳を運んできた女官と思われます」
絃楠が感情の無い声で報告した。
「この辺りでは見かけない娘でして。大膳房の者が問いただしたところ、本来の担当者が急病のため代理で来たということでした」
宦官が、松明の火を死体の顔に近づける。水を吸って膨張した顔を見た瞬間、凜華は息を呑んだ。
「……剽娘さん?」
それは、数日前にトリカブトを持ってきた剽娘だった。その目はカッと見開かれたままだった。
「知っているのか」景雲が鋭く問う。
「ええ……洗滌局に来た新しい人。あかぎれの薬をあげたわ。どうして彼女が大膳房の仕事を」
夜風はどこまでも冷たく、濃厚な血の匂いを運んでくる。
「確かに見たことのない女だ」
景雲が冷たく見下ろしながら言った。
「元々の担当者を探せ。それから洗滌局の管理者も連れてまいれ」
絃楠が首是して去ると、景雲は「戻るぞ」と言って歩き出した。
景雲と凜華は長楽殿の広間には戻らず、居間に移った。
遅ればせながら太医とその弟子たちが到着し、別の部屋で毒を飲んだ宦官を介抱している。庭には大膳房の者や係官が集められ、厳しい詮議が始まっていた。
椅子に腰を下ろすなり、景雲は命じた。
「さすがに酒を飲む気にはなれん。何か気の落ち着くものを作れ」
「……ええ、安眠茶を作るわ」
凜華は材料を持ってこさせ、早速にも茶葉や生薬を混ぜて煎じ始めた。動揺が続いている。考えても気が滅入るばかりだ。なんでもいいから手を動かしていたかった。
小鍋をかき混ぜていると、おもむろに景雲が言った。
「剽娘という女について、知っていることを全部話せ」
「……」
詰問のような厳しい口調に凜華は手を止め、不安そうに景雲を見た。
視線に気づいたのか、彼も顔を上げて言った。
「安心しろ。お前を疑っているわけじゃない。私を殺すつもりなら、お前にはいくらでも機会があった。毒は一服でも百服でも盛り放題だ。食事時を狙う必要もない」
「うん……わかった」
凜華は茶器を取り出すと、漉し網を置いて鍋から茶を移した。盆に乗せて献じると、彼は茶碗を持ち一寸の躊躇もなく口をつけた。
半時(一時間)ほどして、絃楠が戻ってきた。
「本来の御膳の担当である女官が見つかりました。自室で倒れ、死んでおりました」
絃楠は俯いたままで淡々と事実を述べた。
「身ぐるみを剥がれて、下着一枚でした。口の周りを紫にし……血を吐いて。おそらく毒見役が飲んだものと同じ毒を盛られたかと」
続いて、洗滌局担当の宦官たちが入って来た。上長が平伏し、真新しい木簡を差し出しながら言った。
「剽娘という下女ですが、洗滌局の者ではありません。名簿も調べましたが名がございませんし……。洗濯女たちにも聞いてみましたが、そんな娘は知らないとのことでした。夜が明けたら、改めて首実験をいたしますが」
「そんな……」
凜華は茫然と呟いた。では、剽娘が自分に語ったことは一体なんだったのか。
そういえば、剽娘が来るのは夜でいつも一人だった。
他の下女と一緒にいるのは見たことがない。職場に慣れない新入りなら、一人で行動していても不思議ではないが……。
「偽名かもな。後宮の人員ですらなかった可能性もある」
景雲のどこか投げやりな口調に、絃楠が答える。
「はい、一から調べるほかありません」
何者かが、皇帝暗殺の計画を企てた。それは間違いない。
剽娘は、後宮に送り込まれ潜んでいた刺客だったのだろうか。
凜華との会話で後宮内にトリカブトが生えていることを知り、摘み取る際に何本かくすねたのか。そして、本来の担当であった女官を毒殺して成りすまし、大膳房から運ぶ途中で料理に毒を盛った。料理を係官に引き渡した。
だが、彼女はそこで用済みとなった。暗闇の中、黒幕に喉を掻き切られ、用水路に投げ込まれたのか……。
凜華は恐ろしい想像に行き当たった。
「もしかして……私が鳥兜だと言ったから、利用された?」
「わからんぞ」
凜華の心を読み取ったように、景雲が言った。
「その女が、お前のところに毒草を持ち込んだのだろう? 最初から誤食させてお前を殺すつもりだったのかもしれん。見抜かれたために諦めたのかもな」
「うん……。鳥兜が、本当に後宮に生えていたのかもわからない」
剽娘の悲しげな声が、凜華の脳裏にリフレインする。
『でも、毎日思うんです。ここを出て母さんに会いたい。故郷に帰りたいって……』
あれも嘘で演技だったのか。母親の病気は本当だったのか。本人が死んでしまった今は何もわからない。
凜華が作った解毒剤は、奇しくもトリカブトを持ち込んだ剽娘本人の計画を挫くことになった。皇帝の暗殺も失敗した。
しかし、素直に喜ぶ気持ちにはなれない。凜華の胸に広がるのは達成感ではなく、鉛を飲み込んだような重苦しい徒労感だった。




