第25話 転生したくらいでワーホリは治らない<下>
午後、凜華の部屋に、李元を始めとする宦官たちがやってきた。彼らが恭しく捧げ持っているのは、皇帝・景雲からの新たな下賜品であった。
「凜華殿。過日は陛下の御不例を慰め、また大いなる働きを見せられたこと、陛下もいたくお喜びでございます。これはそのご褒美でございます」
李元が布を取ると、そこには息を呑むような見事な工芸品が置かれていた。
「うわあ……っ!」
凜華は目を輝かせ、思わず膝を乗り出した。
それは、金銀の細かい象嵌がふんだんに散りばめられた恐ろしく豪奢な「往診用薬箱」であった。
凜華の前世の知識で言えば、江戸時代後期にオランダ商館医のシーボルトが愛用していたとされる、機能美の極致のような多段式往診箱によく似ている。
「すっごい。博物館で見るやつ……!」
頑丈な紫檀の木で作られたその箱は五段重ねになっており、上蓋を開けると、その下には小刀、薬匙といった細々とした医療器具を収納するための細かい仕切りが設けてある。
引き出しを開ければ、粉薬や丸薬、軟膏の壺を倒れないように並べるための丸い窪みが並んでおり、一番下の深い段には、包帯代わりのさらし布や少し大きめの乳鉢すら入りそうだった。
何よりも凜華を感動させたのは、箱の上部についた象牙の取っ手と、肩から斜め掛けにするための丈夫な革ベルトが取り付けられていることだ。
「これ、持ち運べるじゃない! 往診用のポータブル・メディカルボックスだわ」
凜華は歓喜の声を上げ、革ベルトを掴んで自分の肩に掛けてみた。ずっしりとした重みがあるが、両手が空くため非常に機能的である。
「ええ、その通りでございます」と李元は目を細めた。
「宮廷の宝物庫の奥深くに眠っていた、かつて異国の職人が献上したものだそうです。本来は病気が快癒した際に、太医長に褒美として与えられるもの。国宝級のお品ですぞ。陛下がわざわざ『凜華が持ち歩くのによかろう』と、探し出すようお命じになられたのです」
これを聞いた寿寿や、野次馬根性で集まってきた下女たちは、一斉に黄色い悲鳴を上げた。
「きゃああっ! 凜華さん、陛下に愛されすぎ!」
「こんな宝物をわざわざ探してお与えくださるなんて。どんだけ首ったけなんだか」
「妃どころか、皇后さまになっちゃうんじゃないの?」
外野の女たちはすっかり「皇帝と寵姫の熱いロマンス」に酔いしれている。しかし、当の凜華の脳内にはロマンスの「ロ」の字も存在しなかった。
「すごい……! これなら、緊急時の気付け薬に『麝香』や『牛黄』を入れるスペースも確保できるし、出血を止める『三七人参』の粉末も常備できる。解熱用の『青蒿』に、鎮痛用の『延胡索』……ああああ! 早くこの仕切りを薬でいっぱいにしたい! 薬、薬で満たしたあああい!」
薬箱の引き出しを開けたり閉めたりしながら、完全に自分の世界に入り込んでいた。
その日の夜。
後宮が闇に包まれる頃、凜華は長楽殿へと向かった。下女用の綿衣に、薬を詰めたピカピカの五段重ねの薬箱を斜め掛けにしている。ウキウキと遠足に向かう小学生か、あるいは衛生兵のような出で立ちである。
松明を掲げ、列になって進む凜華たちを見て、他の殿舎から女官や婢が表に走り出てくる。
「えっ……また?」
皇帝の寝所へ召し出されたのは、今宵も侍妾の洗濯女。
下賤の女が物珍しいだけで、二、三回遊べば飽きるだろうと思っていたのに、皇帝の寵愛は日に日に増すばかり。今宵は下賜品と思われる豪華な薬箱まで携えている。
彼女たちは呆気にとられながら、一行を見送るしかなかった。
「陛下! 素敵な薬箱、本当にありがとうございました。すっごく使いやすくて、もう最高」
長楽殿の寝所、長椅子でくつろいでいた景雲の前に進み出るなり、凜華は満面の笑みで礼を言った。
景雲は湯浴みを終えたばかりで、上等な綿の寝巻きから覗く鎖骨や長い首筋は上気し、なんともいえない艶気を放っている。
こちらも国宝級の美丈夫なのに、彼のフェロモンなどどこ吹く風で、凜華は薬箱を床に置いた。愛おしげに金銀の象嵌を撫でた。
景雲は、はしゃぐ凜華からふいと視線を逸らし、バツの悪そうな顔をした。
「……ふん。口止め料だ」
「えっ?」
凜華は薬箱から顔を上げた。
「口止め料? 何の?」
「……」
景雲の眉間に、ピキリと青筋が立った。
「何の?」ではない。彼が言っているのは、先日悪夢にうなされてうわ言を漏らし、凜華に八つ当たりをしてしまった一件である。
凜華は自分のためを思って香を調合したのだ。あれは少し言い過ぎたかもしれない、と彼は密かに気にしていた。
皇帝たる自分が無様な姿を晒してしまった。秘密を絶対に漏らさないようにという彼なりの誠意(と照れ隠し)の表れが、この贈り物だったのだ。
なのに、凜華はそのことを忘れている。
「……忘れているならいい」
景雲は悄然と呟いた。肩透かしを食らったような、奇妙な敗北感がある。
「皇帝付きの薬師なのに、みすぼらしい木箱なぞを使っていては私の沽券に関わる。薬師なら、それらしく薬箱を使え」
もっともらしい理由をつけつつも、彼は同時に落胆を覚えていた。
この女は、自分という「男」には、本当に興味がないのだと思い知らされる。じわじわと焦燥感のようなものがこみ上げてきた。
景雲とて、若く(不眠症と頭痛がある以外は)健康な男である。寝所に若い女を呼び寄せ、二人きりである。高価な贈り物をし、相手も喜んでいる。
通常ならば、しっとりとしたいい雰囲気になり、感極まった凜華が「陛下、大好き!」と抱きついてきて、それならば致し方ないとばかりに景雲も応える。熱い抱擁や口づけを交わし、閨房になだれ込むというのが自然な流れ、後宮の常識ではないのか……?
だが、現実は違った。
「見て見て、陛下。この上蓋の裏の仕切り、細かいものを入れるのにぴったり。これからは色んな薬を作って、この薬箱の引き出しを端から端までいっぱいにするわ。腹痛から毒殺未遂、外傷までどんな状況にもこの箱一つで対処できるようにするから」
凜華は目をキラキラさせながら、薬箱の機能性と今後の創薬プランについて熱弁を振るい始めた。甘い雰囲気の欠片もない。防御力ゼロに見えて、実は物理無効のバリアを張っているような鉄壁の隙のなさである。
「……お前は、本当に薬のことばかりだな」
景雲は呆れ、半ば本気の恨み言のように呟いた。
「こんな夜更けに、絹の服や髪飾りをねだるでもなく、私の寵愛を求めるでもなく、薬箱の仕切りについて熱弁を振るうとは……信じられん」
「じゃあ、おねだりしよ。豚の皮と脂をください。肉付きで」
「やめろ。豚はもういい。李元に言え」
皇帝のロマンチシズムは豚でとどめを刺された。否、打ち砕かれた。景雲はげっそりしながら撥ねつける。
「あら、心外」
凜華は開きなおったように胸を張った。
「しょうがないよ。私は生粋のワーホリだから」
「わーほり?」
「ワーカーホリック。仕事中毒って意味です」
凜華はふふん、と得意げに笑った。
「寝ても覚めても仕事のことばかり考えて、働いていないと死んじゃう病気」
「……阿呆らしい。ただの仕事狂いではないか」
「そうとも言うかも。でも、好きなことを追求できる環境があるなら、それに越したことはないでしょ? 大体、転生したくらいでワーホリは治らないから」
前世では、来る日も来る日も研究室に籠もり、新薬開発やそのデータと睨み合う日々だった。
おそらく事故で命を落とし、気がつけば異世界転生。普通の人間なら、転生を機にのんびりスローライフを送ったり、宮廷や後宮でのし上がったりしてセレブ生活を満喫したりするのだろうが……凜華は違った。
どんな世界に放り込まれようと薬草があり、すり鉢があり、治療を待つ患者がいる限り、彼女は薬師として躍動し続けるのだ。
「……お前の頭の構造はどうなっているのだ」
景雲は力なく笑った。
「まあいい。その薬箱を満たした暁には、私の不眠も完治させてみせろ。治験の成果とやらを見せてもらおうではないか」
「ええ、お任せください。大スポンサーさま!」
凜華は頷くと、再び金銀象嵌の薬箱を愛おしげに撫で始めた。
異世界の少女に転生しようが、後宮に放り込まれようが、美貌の皇帝と夜を共に過ごそうが、不治の病である「ワーホリ」が治る気配は全くないのであった。




