第23話 治験をしたら地雷を踏んじゃったかも<下>
景雲はざっくりとではあるが、この国の医療事情について語り始めた。
医療行為は、それ自体が極めて閉鎖的かつ特権階級しか受けることができない。
周氏を含めた「五大医家」と呼ばれる五つの一族が、薬草の知識や調合の秘伝を独占し、代々太医の座を世襲している。彼らにとって、処方箋や調合書は一族の権力と財産を保証する「門外不出の秘伝」であり、他人に開示するようなものではない。
一般に野良の薬師のような者はおらず、いたとしても見つかり次第、拉致されてしまう。五大医家に脅され、入門という形で取り込まれる。入門や弟子入りを拒否すれば、ひどい嫌がらせに遭い、迫害の憂き目に遭うのだった。早い話が医療カルテル、あるいはマフィアのようなものである。
民間の医療はどうなっているかというと、これは悲惨の一言に尽きた。民草の間では、病気は「悪霊の仕業」「あやかしの呪い」「呪詛によって起きる」と信じられており、街中には怪しげな祈祷師や占い師がはびこっている。
病気になれば祈祷三昧、得体のしれないお札を溶かした水を飲まされたり、太鼓を叩いて悪霊払いと称して踊り狂ったりするだけで、科学的な治療など望むべくもない。
薬草の知識を持つ者が細々と民間療法を行ってはいるものの、体系化された医学には程遠かった。
「奴らにとって処方箋は命そのものだ。外部の者に、それも女に見せるなど天地がひっくり返ってもありえん。私が命じたところで開示には応じない。無理に奪おうとすれば、結束して宮廷への出仕を拒むだろう。そうなれば、家臣どもが騒ぎ立てて面倒なことになる」
「うわあ……完全な既得権益なんだ。利権の巣窟。独占禁止法はないんだね」
凜華はがっかりした。せっかく文字を覚え始めたのに、読むべき文献そのものが手に入らないとは。医学の発展を阻害する最大の要因は、いつの時代も、どの世界でも人間同士の利権が絡む闘争なのである。
「……まあいいわ。自力で薬を作るから」
凜華は文句を言いながらも、景雲の足を湯から上げ、丁寧に拭いた。景雲は奉仕を受けながら、どこか慰めるように言った。
「もっと知りたければ絃楠にでも聞け。あれは外廷と内廷を自由に行き来できるゆえ、色んなことを調べてくれる」
「うん、そうする」
凜華は凜雪膏も取り出した。少しでも隈が薄くなるようにと、彼の目の下や周辺に軟膏を塗った。
首筋から背中にかけて、丹念にツボを押していく。心地よいのか、景雲は目を閉じた。
香炉から立ちのぼる甘松の香りが、昂ぶった神経をゆっくりと鎮めていく。
ちょうど香が尽きる頃、景雲は寝台に横になった。
「……お前は、本当に妙な女だ」
巡幸と不眠による疲労も相まってか、彼の意識は深い微睡みへと引きずり込まれていった。
「どうも。そして、おやすみなさい」
凜華は規則正しい寝息を立て始めた皇帝を見下ろし、小さく肩を竦めた。
深夜。
寝所は、深い闇と静寂に包まれていた。外では見張りの宦官たちが息を潜めて立っているはずだが、分厚い扉と壁に遮られ、物音一つ聞こえない。香炉から漂う、微かな残り香。
静寂を破ったのは、低く、獣のような唸り声だった。
「う……ううっ!」
床で丸くなっていた凜華は、異音に目を覚ました。
すぐさま跳ね起き、暗がりの中で音の出どころ――皇帝の寝台へと目を凝らした。
寝台の上では、景雲が身をよじらせていた。厚い掛け布団を蹴り飛ばし、敷布を固く握りしめている。その顔は苦悶に歪み、月明かりに照らされた額には、玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。
「陛下……?」
凜華が小声で呼びかけるが、景雲は目を覚まさない。
彼は、見えない何かに首を絞められているかのように喘いでいた。
「……はは、うえ」
唐突に、景雲の口から掠れた声が漏れた。
「どうか……どうか、お許しを……ッ!」
それは、普段の冷徹な皇帝からは想像もつかない、弱々しく恐怖に震える子供のような響きだった。
うわ言は続く。
「私は……の……ではありません……。兄上の……あ、あ……行かな、いで……!」
景雲は己の喉を掻きむしるような仕草を見せた。呼吸が浅く、不規則になっている。過呼吸を起こしかけているようだった。
凜華は瞬時に判断した。このまま放置しておくと危ない。何よりも苦しそうだ。
「陛下、起きて!」
凜華は寝台に身を乗り出し、景雲の肩を強く揺さぶった。
「っ……あ……!」
景雲は大きく息を吸い込み、弾かれたように目を見開いた。瞳孔は恐怖で極限まで見開かれ、焦点が合っていない。
荒い息を吐きながら周囲を見回し、やがて目の前にいる凜華の顔を捉えた。
「凜華、か……?」
「そうよ。大丈夫? ひどくうなされてたけど」
凜華が落ち着いて声をかけると、景雲は我に返った。自分が汗だくで、息を乱していることに気づくと、顔からスッと血の気が引いていった。
「私は……何を? 何か言ったか」
景雲の声は低く、押し殺したような響きを帯びていた。
探るような鋭い視線が凜華を射抜く。
「別に……」
「言え。何か言ったはずだ。言え」
凜華は迷ったが、黙っているのは悪手だと考え、正直に言った。
「……『母上、どうかお許しを』って。あと『兄上』とか『行かないで』とも」
その言葉を聞いた途端、景雲の顔に凄絶な殺気が走った。
バッと手が伸び、凜華の細い手首を掴んだ。
「いたっ!」
「……今、聞いたことは忘れよ。全部だ」
景雲は、地獄の底から響くような声で囁いた。その顔は夜叉のように恐ろしく、皇帝の威厳というよりも、脅迫に近い凄みがあった。
「絶対に他言するな。もしこのことを漏らせば、八つ裂きにして犬に食わせてやる」
痛みに顔をしかめながらも、凜華は景雲の瞳の奥に深い絶望と孤独のようなものを見た。
絶対零度の、何か。
彼が妃を含めた女たちを傍に近づけず、決して夜を共にしない理由。それは、おそらくは女嫌いや潔癖症だからではなく……。
眠りについた無防備な状態の時に、過去――何なのかはわからないが――の記憶がフラッシュバックし、うわ言として漏れ出てしまうからなのか。
うわ言は弱点。弱みは、即座に政敵の付け入る隙となる。だから彼は誰も信用できず、一人で眠るしかなかったのか。
「……わかったわ。誰にも言わない。痛いから離して」
凜華が静かに、はっきりと告げると景雲はハッとして手を離した。
己の失態を取り繕うように荒々しく髪を掻き乱し、乱れた寝巻きの胸元を合わせた。
苛々とした矛先を別の方向へ向けた。
「香のせいだ」
「は?」
景雲は語気を荒げた。
「お前がおかしな香を焚くから、悪い夢を見たのだ。やはり香は害悪だ。二度とあのようなものを持ち込むな」
完全に八つ当たりである。香は、成分的には鎮静作用とリラックス効果しかないはずで、悪夢を引き起こすような幻覚作用のあるものは一切入れていない。
「変なものは入ってないのに……」
凜華は不満そうに呟いたが、相手は絶対権力者であり、今は情緒不安定な患者である。正論を叩きつけて論破しても何の得にもならない。
「聞いているのか」
「はいはい、わかりました。香はもう使いません。でも、汗をかいたままだと風邪を引くから。着替えましょう」
凜華はすっくと立ち上がると、卓の上に用意されていた手拭いを水に浸し、固く絞った。
顔を背ける景雲の傍らに座り、その首筋から胸元にかけて、汗を丁寧に拭い去っていく。景雲は、子供のようにされるがままになっていた。
精緻な横顔に、先ほどの夜叉のような恐ろしさはない。
そこには、疲れ果てたような一人の青年がいるのみだった。
汗を拭き終わると、凜華は新しい寝巻きを持ってきた。そっと景雲の肩にかけた。
「寝巻きも綿にした方がいいかも。絹を着て寝るのがステータスなんだろうけど。綿の方が温かいし、汗をよく吸うから」
「……ああ、夜着などなんでもいい。任せる」
景雲は着替えながら、ぶっきらぼうに言った。
「今夜のことは気にするな」
「うん」
凜華は気にはしていなかった。少し残念ではあるが、こういう日もある。
脱いだ寝巻きを受け取りながら、今後はどうやって治療していこうかと新たなプランを考え始めるのだった。




