第22話 治験をしたら地雷を踏んじゃったかも<上>
さて、凜華の薬師としての第一の務めは、皇帝・景雲の病気を治し、彼の健康を守ることである。
景雲が苦しんできた不眠は徐々に解消しつつあるが、質の高い睡眠のためにさらに試行錯誤を重ねるつもりでいた。施策は何も頓服薬だけとは限らない。
数日にわたる地方への巡幸に出ていた景雲が、莫大な数の供回りを引き連れて宮城へと帰還した。
巡幸といえば聞こえはいいが、要は地方の有力者への牽制であり、権力の誇示であり、泥臭い政治の最前線である。
毎日馬車に揺られ、道中の埃を被り、各地でへこへこ頭を下げる地方官僚や豪族たちの接待(という名の腹の探り合い)を受け続けるのは、若き皇帝の心身にそれなりに負荷がかかるものであった。だからこそ宮城に戻るや否や、景雲は後宮へ使いを出した。
「凜華殿、皇帝陛下のお召しにございます」
李元をはじめとする宦官たちが、凜華の部屋を訪れたのは、夜もだいぶ更けた頃だった。
鍋で薬草を煮ていた凜華は、顔に煤をつけたまま「えっ」と間の抜けた声を上げた。
「今から? 陛下は帰ってきたばっかりでしょ?」
「はい。今宵もご奉仕をと仰せつかっております」
「夜勤かあ……」
凜華はあからさまに肩を落とし、深々とため息をついた。
前世のサラリーマン時代、定時直前に上司から「今日は、朝までに抽出いけるよね?」と肩を叩かれた時のあの絶望感に近い。仕事は大好きだったが、働き方改革もへったくれもなく、大体そのまま朝までコースだった。
周囲の反応はまったく違った。寿寿や、様子を見に来ていた下女たちは、一斉に顔を赤らめて色めき立った。
「凜華さん、すごい! 帰られてすぐにお召しだなんて、どれだけ愛されてるの。陛下はもう凜華さんなしじゃ、夜を過ごせないのよ」寿寿がうっとりとした目ではしゃぐ。
下女たちも口々に叫ぶ。
「夜のお勤め頑張って! 引き締め、引き締めが大事」
「陛下を咥え込んで離すんじゃないよ。空っぽになるまで絞り尽くしておやり!」
などという明け透けすぎる卑猥なエールが飛んでくる。
「あのねえ、咥え込むとか絞り尽くすとか、言い方……。私は、ツボ押しとか足湯しに行くだけだからね」
と凜華が訂正したところで誰も聞いちゃいない。
下女たちはすでに凜華の「皇帝を虜にする絶倫の薬師」というイメージを信じ込んでいる。
だめだこりゃ……。凜華は諦めて首を振り、夜勤用の商売道具を抱え、李元たちに囲まれて長楽殿へと向かった。
長楽殿の寝所には、湯浴みを終えて寝巻き姿になった景雲が長椅子に身を横たえていた。相変わらず、ぞっとするような美貌である。
その目の下には隈が張り付き、肌は疲労からか青白く透けて見えた。最近はよく眠れていたため、隈も薄くなっていたのだが、巡幸中に元通りになってしまったようだ。
「……遅いぞ」景雲は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「お待たせしました、陛下。巡幸、お疲れさまでした」
凜華は慣れた手つきで木箱を置き、景雲の傍らに膝をついた。
「出先では眠れた?」と、気安い口調で尋ねる。
「いや、うとうとした程度だ」
景雲はうんざりしたように顔をしかめ、前髪をかき上げた。寝台車の寝台は揺れる上に固く、臣下の邸宅での寝具の匂いも気に入らず、何より周囲の気配が煩わしくてろくに眠れなかったらしい。
「巡幸には太医の一人を連れていったが、薬湯は効かなかった。まったく、どいつもこいつも無能ばかりだ」
出先でも毎晩、酸棗仁湯に牛乳を入れたものを作らせて飲んだが、分量や調合方法が違うのか効き目はなかった。
景雲は、内心密かに認めていた。どうやら自分を深く眠らせることができるのは凜華だけという事実を。自身の健康と安眠のためにも、この女は絶対に手放せない。可能なら、巡幸にも連れていきたいくらいだ。
しかし、皇帝としての矜持から、素直に口に出すことはなかった。
「まあ、そう言わずに。環境が変わると自律神経が乱れるし、枕が変わると眠れないものだから。今日は、安眠に効く新しい香を持ってきたの」
凜華は木箱から、鉄製の小さな香炉と布に包んだ円錐型(コーン型)の香を取り出した。
景雲が驚きの声を上げる。
「待て。香は害だと言って、お前自身が止めさせたではないか」
「それは、ただ高級なだけのお香を換気もせずに焚きまくっていたからです」
「香の種類や量に問題があるのか」
「何事もやりすぎはよくないってこと。お香も精油と同じで用量と用法を守れば、脳に直接働きかけてリラックス効果をもたらすの」
凜華はこともなげに答え、満面の笑顔で香を差し出した。
「これは私が作った新作。甘松と白檀をベースに、緊張を解きほぐす乳香と気を巡らせる丁子を少しだけブレンドしてみたの。名付けて『凜華式・スペシャル甘松香』。折角作ったんだから試さないと」
凜華が作ったのは、オリジナルの甘松香である。
甘松はオミナエシ科の寛葉甘松(ナルドスタキス)の根で独特の甘美な香りがあり、鎮静作用が強い。漢方の古典でも「悪夢を払う」とされるほど、精神安定に優れた香材である。
用意した生薬の粉末に椨粉(粘着材)と水を入れて練り、一回で使い切れる小さな円錐型に整えた。直射日光の当たらない風通しのいい場所で、二、三日乾燥させれば完成だ。
「もしや私を実験台にするつもりか」
景雲が冷ややかな目で睨みつける。新薬をよりにもよって皇帝で試すなど、不敬罪で首が飛んでもおかしくないが……。
凜華はケロリとして言い放った。
「だって私は不眠じゃないし、周囲に不眠の人もいないし。あなたで治験するしかないじゃない」
「ちけん、だと?」
「そう、臨床試験。薬の有効性と安全性を確認するためには、実際の患者のデータが必要不可欠なのよ。それに私もここで寝るんだよ。何かあったら一蓮托生。変なものは焚かないよ」
まったく悪びれる様子のない凜華に、景雲は毒気を抜かれた。彼は諦めたように息を吐いた。この女に常識を説くだけ無駄だと悟ったのである。
「……勝手にしろ」
「ありがとうございます。もう陛下さまさまだわ」
凜華が香炉に火を入れると、ふわりと高雅で、どこか甘く重たい香りが寝室に漂い始めた。
焚きっぱなしにすることはない。眠りにつく三十分前には焚き終えて換気をする。
景雲の表情が和らぐのを見届けると、凜華は足湯の準備をしながら、思い切って切り出した。
「ところで陛下。お願いがあるんだけど」
「なんだ。また豚の脂身か」
「違う、材料じゃなくて。太医たちが持っている薬の処方箋とか、薬学の本があったら見せて欲しいの。陛下から話をしてもらって……できれば貸して貰えると嬉しい。書き写してすぐに返すから」
凜華の要求に、景雲は冷笑した。
「……阿呆め。商売敵のお前に、連中が本や調合の仕方を教えるわけがなかろう」
「ええっ、ケチ! 学問は共有してこそ発展するものでしょ? オープンソースの精神はないわけ?」
「おーぷんそーす? わけのわからん言葉を使うな」




