第21話 この世界の文字が読めないんだけど<下>
先春殿の裏手、侍女たちが寝泊まりする住居房の一室で、周但娘は不機嫌の極みに達していた。
それもそのはずである。彼女の目の前には、先日乗り込んできて凜雪膏を押しつけていった、あの生意気な女・凜華がいた。自室に戻ってきたら、勝手に居座っていたのである。最初は何かの悪夢かと思ったくらいだ。
「なんなのよ、あんた。出てってよ。ここはあんたのような下賤な女が来るところじゃないから」
但娘は、柳眉を逆立てて怒鳴った。筆頭侍女としての矜持や品格はどこへやら、素地全開である。
凜華に対して遠慮する気持ちはなかった。皇帝のお手付きになったとはいえ、元々は異郷の女で、後宮に売られてきた卑しい下女。皇帝の妻、すなわち妃でもないただの侍妾。自分の方が、よほど身分が高い。代々太医を輩出する周家の出であり、本来ならば侍女に甘んじることもないとすら思っている。下手に出る必要などどこにもなかった。
凜華はどこ吹く風で、小脇に抱えてきた何本もの木簡を、卓の上に広げた。
「まあまあ、そう邪険にしないでよ。ちょっとお願いがあって来たの」
「お願い? ふざけないで。皇帝陛下の想い者か何か知らないけれど、断固お断りよ。さっさと出て行って」
「へ~そんなこと言っていいんだ」
凜華は抑揚のない声で言いながら、わざとらしく天井を仰いだ。
「じゃあ、陛下に頼んであんたの部屋を捜索してもらおっかな。何が出てくるかな~? 巴豆の絞りかすとかが出てきたら、毒入りの滑雪膏を私に贈った証拠になっちゃうかもね。もしあんたが逮捕されたら、梅妃や実家にもとばっちりがいくんじゃない? いいの? ねえ、本当にいいの?」
ピタリ、と但娘の動きが止まった。顔面から血の気が引き、次に怒りから真っ赤に染まる。
巴豆はすでに処分した。だが、床下に隠してある薬草や薬研などの調合道具は、捜索されればすぐに見つかってしまう。それを没収されでもしたら……。
「……くっ、陛下の寵愛を笠に着て、調子に乗るんじゃないわよ、この狐女!」
「狐でも狸でもいいから、ちょっとこれ読んでよ。薬の名前のところだけでいいからさ」
凜華は悪魔のような笑顔で、木簡を但娘の鼻先に突きつけた。皇帝の権力を使った見事な脅迫である。
但娘はギリッと奥歯を鳴らした。主人の梅妃を巻き込み、実家を取り潰しの危機に晒すわけにはいかない。屈辱に震えながらも、木簡を受け取るしかなかった。
かくして、奇妙な勉強会が始まった。但娘が不承不承、木簡の文字を指さし、発音と薬草の特徴を読み上げていく。
「これは『シャックル』。根を乾燥させたもので、血を補い、痛みを止める作用があるわ」
「なるほど、芍薬ね。鎮痙作用があるペオニフロリンが主成分か。よし」
凜華は手元の板切れに、見慣れぬ異世界の文字を模写し、その横に日本語で「芍薬」と書きルビを振っていく。
「次は『カンギィズ』。甘みがあって、他の薬の毒性を和らげ、調和させるものよ。どんな処方にも大抵入っているわ」
「グリチルリチン酸……甘草のことね。オッケー、次」
「これは『マァヴォン』。発汗作用が強く、咳を止める。体力の無い者には使っては駄目」
「エフェドリン含有の麻黄ね。交感神経を刺激するから心臓に負担がかかる。お~合ってる合ってる。大体同じだわ」
「何が同じなのよ」
「私が習った薬学と。酸棗仁湯があるんだから、当たり前っちゃ当たり前かも」
但娘が読み上げる薬の効能を、凜華は現代薬学と漢方の知識で即座に翻訳し、紐づけていく。
最初は嫌々だった但娘も、凜華の異常なまでの理解の早さと、時折口にする未知の専門用語(ペオニフロリンだの交感神経だの)に、次第に引き込まれていった。
この女……できる! 少なくともエセ薬師ではないことは確かだ。
「……あんた、その知識。本当に薬師なのね」
「まーね。ここでは意味ないだろうけど、一応薬学専門の大学も出てるし、薬はひととおり作れるよ」
凜華が文字を書き写す手を休めずに答えると、但娘はふっとため息を漏らした。
「大学。大学まで出てるんだ。いいな」
その声には、先ほどまでの刺々しさはなく、そこはかとない悲哀が滲んでいた。
「私も、薬師になれれば良かった……」
凜華は筆を止め、但娘の顔を見た。
「なれなかったの? 読み書きもできるし、薬にも詳しいのに」
「なれるわけないでしょう。私は女だもの」
但娘は悔しそうに唇を噛んだ。彼女は幼い頃から、薬師助手である父の仕事場に出入りして教えを乞い、昼も夜も本草書を読み耽った。薬作りを手伝い、兄や弟たちよりも遥かに出来がよかった。匂いだけで、煎じ薬の種類を当てるほどの才能があった。
なのに、兄や弟が本家にある調合所に通うようになっても足を踏み入れることを許されなかった。
「女だからって理由で……本当に馬鹿みたい。普段は遊びほうけてる兄が、跡取りだからって立派な薬箱をもらって弟子入りして。私はずっと指を咥えて見ているしかなかった」
但娘の瞳に、うっすらと涙が滲む。
「父さまは、私を褒めてくれたけど……最後にはこう言ってため息をついたわ。『但よ、お前が男であればなあ』って」
凜華は、ふふっと小さく笑い声を立てた。
「何がおかしいのよ!」
「あんたは、紫式部みたいなことを言われてたんだなあと思って」
「むらさき……? 何それ」
「私の故郷の女流作家の名前。弟より勉強ができたのに、女だからという理由で学者になれなかった。お父さんに『お前が男だったら良かったのに』って嘆かれたのよ」
異世界であっても、家父長制の抑圧の構造は変わらないらしい。それは凜華にも理解できた。
「でもね、但娘」
凜華は真剣な眼差しで、但娘の目を見た。
「私の故郷も、女が薬師になれるようになったのはここ数十年の話だから。戦前まではこの世界とたいして変わりはなかった。私は偶然いい時代に産まれたの」
「この世界? 意味がわかんないんだけど」
「あんたの不遇は、あんたの能力や努力が足りないせいじゃないってこと。時代と場所が、あんたに追いついてないだけよ」
但娘は目を見開いた。これまで誰にも言われたことのない言葉だった。薬師の才能を「女には不要なもの」ではなく、ただ「時代が悪い」と切り捨ててくれたのは。
「……慰めのつもり?」
「事実を言ったまでよ」
凜華は再び木簡に向き直り、ニカッと笑った。
「ねえ、あんたも私の研究を手伝ってよ。この世界の文字と薬の名前を教えてくれたら、お返しに新作のサンプルとかあんたが知らない薬の作り方を教えてあげる。陛下だって、女が薬を作ることを禁じてるわけじゃないし。一緒に最強の美容液とか、もっとよく効く薬を作ろうよ」
それは、ただの戯言ではない。確かな知識に裏打ちされた熱い勧誘だった。
但娘の胸の奥で、長年押し殺してきた渇望が、ドクンと音を立てて脈打った。この女と一緒にいれば、本家の調合所や薬師房よりもずっと面白い、見たこともない創薬の世界に触れられるかもしれない。
だが――。
「……お断りよ」
但娘はツンとそっぽを向いた。
「私は梅妃さまにお仕えする筆頭侍女。あんたの研究に付き合う義理なんてないし」
別に梅妃に対して高い忠誠心があるわけではない。周家は蕭家の家臣でもない。長年のお得意さまで、お付き合いがあるというだけだ。
勝手に侍女を辞めることはできない。使用人の去就に関しては主人と実家に決定権があり、但娘自身の意思が尊重されることはない。凜華の誘いに心惹かれないでもなかったが、応じるわけにはいかない。
「あんたが来て本当に迷惑。私だって忙しいのに」
素っ気ない態度をとる但娘だったが、その耳は少し赤くなっていた。
それに、再び「次の薬材は……」と読み上げを再開したのだから、態度はツンデレそのものである。
「はいはい、残念。じゃあせめて、この木簡の解読が終わるまでは付き合ってね、先生」
凜華はからかうように言いながら、筆を走らせ続けた。
結局、但娘はその日のうちに重要な文字をひととおり教え込んだ。
凜華は凜華ですさまじい記憶力で、生薬に関する文字をあらかた覚えてしまった。
「……おっし。この調子で他の文字も覚えていけば、いずれは本を読めるようになるかな。薬学の書籍があるのかどうかはわからないけど」
そこそこ重い木簡を抱えての帰り道、凜華は期待に胸を膨らませたのだった。




