第20話 この世界の文字が読めないんだけど<上>
さて、凜華の毎日は、皇帝の寵愛を受けているという誤解をうけながらも、ひたすら生薬の匂いを漂わせ、すり鉢に向き合うという異端極まりないものであった。
ここは本来、女たちの陰謀と愛憎がドロドロと渦巻く伏魔殿のはずなのだか、彼女の頭の中はいかにして質の高い薬を作り、己の知的探求心を満たすかという一点のみで占められている。
凜華は今、住居房の床に座り込み、目の前に並べられた品々を見て歓喜の吐息を漏らしていた。
「おお……」
李元たちが研究費から購入したもの、表向きは皇帝・景雲からの下賜品として、漢方薬を作るための本格的な道具一式を運んできてくれたのだ。
ずっしりと重い鉄製の薬研、乳鉢と乳棒、細かい網目のふるい、薬草を刻むための押し切り型の薬刀、成分を抽出するための銅製の蒸留器らしきものまである。
現代のガラス製ビーカーやピペット、遠心分離機には遠く及ばないものの、この世界の技術水準からすれば太医(宮廷医師)たちが使う最高級の機材に違いなかった。
「素晴らしい。これなら葛根の粉砕も、麻黄の抽出も思いのままだわ」
凜華は薬刀の刃を指の腹でそっと撫で、うっとりとした笑みを浮かべた。
李元や宦官たちは「また気味の悪い笑い方をしている」と引いている。
さらに凜華を喜ばせたのは、道具と共に積まれていた数本の木簡である。この国にも紙らしきものはあって、宮廷では使われているようだが、貴重なものなのか後宮では見かけない。書簡や布令は、木や竹の薄い板を繋ぎ合わせた木簡や竹簡がよく使われている。
「李元さん、これは?」
「薬師房の帳場から持ってきた、薬材の目録でございます」
李元はうやうやしく礼をした。
「現在、宮廷の蔵に保管されている植物、鉱物、動物性の生薬などのすべての材料が記載されております。この木簡に記されているものであれば、お申し付けくだされば調達してまいります」
「本当? やったあ! これでいちいち名前を説明して探させなくても、指差すだけで注文できるのね。便利~!」
宦官たちが去った後、凜華は最新のネットカタログを手に入れたかのように目を輝かせ、一番上にあった木簡を手に取った。革紐で編まれたそれをパラパラと広げる。
墨の匂いがふわりと漂う。さあ、この世界にはどんな未知の生薬が、あるいは見慣れた漢方薬があるのだろう。
人参はあるか。柴胡はあるか。黄連は――。
しかし、木簡に目を通した凜華は能面のような無表情になった。まばたきを数回し、木簡を顔に近づけ、また離す。目をこすってもう一度見る。
「……読めない」
凜華は呆然と呟いた。そこに書かれているのは、漢字ではなかった。いや、パッと見の印象は漢字によく似ている。
偏や旁らしき構成要素があり、四角い升目に収まるような造形をしている。だが画数が異常に多かったり、逆に奇妙に省略されていたりして、知っている漢字とは明らかに違う。
かつて中国の歴史上に存在した西夏文字や契丹文字などの擬似漢字に近い雰囲気だが、それとも違う。さらに絶望的なことに、数字の表記すら違った。
一、二、三、といった直感的な横棒の羅列ではなく、渦巻きや点線を組み合わせたような、まったく法則の読めない幾何学模様が「数」として記されているようなのだ。
凜華は海外の論文を読んだり、また学会で発表したりするために英語はそこそこできる。
漢文も読める。漢方のルーツは中国の三大医典、最古の薬物学書「神農本草経」、最古の医学理論書「黄帝内経」、臨床医学のバイブル「傷寒雑病論」である。
特に後漢の官僚で医師の張機(張仲景)が著した「傷寒雑病論」が日本の漢方医学のベースとなっている。
それ以上に、日本の公文書は明治時代になるまで漢文であったし、明治以降も一九四六年まで漢文訓読体が使われていた。
日本で発達した漢方薬学も、書籍は漢文で綴られている。現代では秀逸な邦訳や現代語訳のテキストがあり、凜華もそれらを使って勉強したが、時には原文を当たることもあった。
「古代漢語……? 甲骨文字とか金文? いや、違うな。文字の構造が根本的に漢文の体系からズレてる……」
凜華は頭を抱えた。漢文は読めても、本来はバリバリの理系女子。文系科目は基本的に受験用の知識しかなく、言語学には精通していない。精通していたとしても、どの語族の系統にも属さない異世界の文字は理解できないだろう。
この世界に来てから、周囲の人々とは普通に言葉が通じていた。発音のイントネーションも、少しなまりのある日本語、あるいは現代中国語の吹き替え版のような感覚で、脳内で自動翻訳されるかのように違和感なく会話ができていた。だから文字も当然、漢字かそれに類するものだと思い込んでいたが……現実はそんなに甘くなかった。
按ずるに……と彼女は推察する。
この世界、この国と言うべきか、の言葉がわかるのは転生先――名前もわからない十代とおぼしき少女――が現地人で現地語話者だったからだ。口語の能力をそのまま受け継いだため、現地の会話は理解できるし話せる。しかし、少女は文字の読み書きはできなかった。だから凜華も読めないし書けない……のだと思われる。
まだ現地人で幸運だったと思うべきなのか。これで異邦人、非ネイティブであったら、何を言っているのかもわからずで詰んでいただろうが……。
パタリ、と凜華は木簡を床に取り落とした。
「古代中国にタイムスリップしたわけじゃないんだ。やっぱりここは……異世界なんだ」
ここは過去の地球ではなく、似て非なるパラレルワールド、真性の異世界……なのは別にいい。
そんなファンタジーな事実よりも、深刻な大問題があった。
「字が読めなきゃ、注文ができない……! 調合書も本も読めない」
円滑に製薬研究を進めるためには、この世界の文字を丸暗記し、読み書きができるようにならなくてはならない。
言語習得。それは研究者にとって避けて通れぬ道とはいえ、あまりにも高い壁だった。誰かに教えてもらうしかない。
凜華はすがるような目で、部屋の隅で洗濯物をたたむ寿寿を見た。
「ねえ寿寿、この木簡、なんて書いてあるか読める?」
「えっ? 文字ですか?」
寿寿はやってきて木簡を眺めたが、すぐに首を横に振った。
「何もわからないです」
「やっぱりそうかあ……」
「ごめんなさい、凜華さん。私は学がないから……」寿寿はすまなそうに首を竦めた。
「私も学はからきしないよ。まったくわかんないもん」
この国の識字率は不明だが、近代以前の社会において、読み書きは知識人、特権階級の専売特許である。下女や宦官の多くが文字の読み書きはできない。
李元のような官僚に近い宦官なら可能か。しかし、彼は皇帝の側近として激務をこなしており暇ではない。
さらに言えば、ただ文字が読めるだけでは駄目なのだ。
木簡に書かれているのは、薬草の名前や生薬の材料である。専門用語だ。例えば日本でも、「鬱金」と書いて「うこん」、「牛膝」と書いて「ごしつ」と読むような専門知識がなければ読めない当て字が無数にある……と思われる。
薬の知識がなければ、目録を正確に発音し、どういうものであるのかを伝えることは不可能だった。
「文字が読めて、かつ薬の知識がある人物……」
凜華は腕を組み、唸った。宮廷の太医に教えを乞いたいところだが、知己がいるわけではない。太医は皇帝の配下、お願いするなら景雲に話を通さないと難しいだろう。そもそも、凜華は後宮からは出られない。
八方塞がりかと思われたその時、凜華の脳裏にある人物の顔が閃いた。
「あ、いたわ。薬の知識があって、文字も読めそうで、後宮に常駐しているのが」
凜華はニヤリと、それこそ寿寿が怯えるような悪役めいた笑みを浮かべた。
先日、毒入りの滑雪膏の件でやり合ったばかりの、先春殿の筆頭侍女――周但娘である。




