第19話 高級美容クリームで営業しちゃうもんね<五>
「毒はね、口から入るとは限らないの」
凜華は自分の頬を指さした。
「皮膚から入る場合もある。経皮吸収というの。原因はおそらく滑雪膏よ」
桂は呆気にとられたように口を開けた。
「化粧品が……毒?」
「ええ。たぶん気鬱の病、精神錯乱は水銀中毒によるもの」
凜華は、噛んで含めるように説明した。
水銀は皮膚から血管へと入り込み、腎臓や脳神経を冒すことを。
「手足の震え、不眠、情緒不安定や幻覚。これらは典型的な無機水銀中毒の症状。ハンター・ラッセル症候群や、あるいは帽子屋のように……」
「まっどはったー?」
凜華は自分の頭を指差し、何かをかぶるような仕草をした。
「水銀中毒は『帽子屋の病』とも呼ばれているの。職業によっては不可抗力の病だったのよ」
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に登場する「帽子屋」。彼がMAD、つまり「狂っている」とされたのは、十八世紀〜十九世紀のイギリスにおける職業病が関係している。
当時、フェルトの帽子の製造工程において、兎の毛皮を加工するために「硝酸水銀」が使用されていた。そのため、帽子職人たちは有害な水銀蒸気を長期間吸入し続けることになり、慢性的な水銀中毒に陥ったのだ。
「とにかく、神経が毒に侵されて起こる病気なの。毒というよりは薬害かな」
桂は言葉を失った。主人が狂ったのは、心が弱かったからでも、呪詛でもなかった。皇帝の愛を取り戻そうと美しくなろうとして毎日塗りたくっていた、高価なクリームが原因だった。
「……嘘だろう」
桂の顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。なんと滑稽な話だろうか。美を追い求めて、大枚をはたいて、その結果として狂気と死を買ってしまったとは。
「ハハ、あんたからしたら笑っちゃうだろうね。家が買えるほどの金を使って、わざわざ毒を顔に擦りこんでいたなんてさ」
凜華は笑わなかった。
「ううん、笑ったりはしない」
凜華の瞳には、深い哀れみと、どこか遠い場所を見つめるような光が浮かんでいた。
「私の故郷でもね、ほんの数十年前までは滑雪膏と同じような化粧品が出回っていたのよ。入っていたのは『アミノ塩化第二水銀』、白降汞というんだけど。それが入ったクリームが、シミ抜きや美白に効くとして大々的に売られていたの」
アミノ塩化第二水銀は、塩化第二水銀(昇汞)の水溶液にアンモニア水を加えることで生成される。副生成物として生じる塩化アンモニウムや、未反応の原料を取り除き、乾燥させて精製する。数グラムを経口摂取しただけでも死に至る猛毒だ。
明治から昭和にかけて、水銀入りの化粧品は「色が白くなる」として多くの女性に愛用された。「女子顔面美白」を謳ったそれらの商品は、確かに効果があったが……黒皮症(リール黒皮症)などの被害も多発することになった。
厚生省(当時)が水銀化合物の配合を禁止する通達を出したのは、一九七〇年代に入ってからのことだ。日本でもつい最近まで、この後宮の女性たちと同じ過ちを犯していたのである。
「私の国でも知らずに顔に塗って、薬害に苦しんだ人たちが大勢いた。だから桂女さんやご主人を笑うなんて、無理」
「そうだったのかい。あんたの故郷でもねぇ……」
「今は大丈夫だけどね。……それに庇うわけじゃないけど、化粧品の開発者に悪意があったわけじゃないと思うの。女性を綺麗にしたい、色を白くしたい一心で研究して作ったんだと思う。毒物だとわかっていても、水銀が持つ漂白作用は魅力的なのよ」
凜華は少し寂しげに言った。
「だから、誰も何も悪くない。不幸な事故だったの」
重苦しい沈黙が流れた。風が吹き抜け、洗濯物の生乾きの匂いを運んでいく。
やがて、桂は顔を上げた。その表情からは、先ほどまでの湿っぽい影が消えていた。憑き物が落ちたように呟いた。
「ご主人さまの死因がわかって、すっきりしたよ。呪いのせいでも、あたしの毒見に手抜かりがあったわけでもないんだね」
「うん、桂女さんのせいじゃない」
「そうか、そうか……」
桂は懐の小壺を、服の上から愛おしげに撫でた。それから、にやりと笑った。それは長年後宮の水をすすり、生き抜いてきた者だけができる、凄みのある笑みだった。
「ここでは嫌なことも沢山あった。ご主人さまが亡くなったのも本当に悲しかった。……けどね」
桂は洗濯棒を杖のように突くと、背筋を伸ばした。
「先帝陛下を奪った女狐も、ご主人さまをいじめた意地の悪い妃たちもみーんな死んじまった。皇后から下位の妃まで全員だよ、全員。今、こうして生きて息をしているのは洗濯婆のあたしだけさ」
カカカ、と桂は喉を鳴らして笑った。
「ざまあみろだ。長生きすること以上の復讐はないね」
その言葉は、どんな高尚な哲学よりも後宮の真理を突いていた。美貌も、権力も、皇帝の寵愛も死んでしまえば何にもならない。生き抜いて、最後に立っていた者が勝者なのだ。たとえ皺だらけの顔、あかぎれだらけの手をした一介の洗濯女であったとしても。
「強いなあ、桂女さんは」
凜華は感服した。この逞しさこそが、この世界で生き抜くための最強の武器なのかもしれない。
「凜華、ありがとうね。この軟膏は大事に使わせてもらうよ。……あたしはまだまだ死なないからね。もっと長生きして、あいつらの分までいい思いをしなきゃ割に合わない」
「ええ、そうして。また新作ができたら持ってくるから」
凜華は立ち上がった。笑顔で手を振ると、洗濯場を後にした。背後からは、洗濯棒が濡れた布を叩く力強い音が響き始めた。




