第206話 五石散三重奏殺人事件<二十二>
水面に落ちた一滴の雫のように波紋が広がりかけたが、それはすぐに元の凪いだ水面に戻った。
「……懐かしいものだ」
裴尚書は、どこか遠くを見るような、あるいはひどく退屈なものを見るような眼差しで言った。
「確かに私が書いたものですが、今となっては青臭い感傷にすぎない。この手紙が、今回の事件に何の関係があると?」
凜華は、男の隙のない態度に内心舌を巻いた。
「あなたと阿星さんの関係は、尚敬支さんのことも含めて、あまりにも『出来すぎている』と感じていた」
凜華の視線を受け止めても、裴尚書は瞬き一つしない。
「それは、阿星さんの犯行を見ていても思う。確かに彼は天才的な頭脳を持っている。手先も器用で、行動力もある。でも、宮城に入ってわずか一年足らずで、ここの内部構造を熟知できるとは思えない。宮城は、それだけで一つの都市に匹敵するほど広大で複雑よ。どこにどの配管が通り、どの壁の裏に空洞があり、どうすれば誰にも見られず移動できるか……。助言や事前知識なしに、精緻な罠を組み立てるのは至難の業のはず」
凜華は一つ息をつき、さらに続ける。
「宮廷童子は、宮城のあらゆるところに出入りできるけれど、それはあくまで『先方に呼ばれた場合のみ』という前提のはず。軍事機密を扱う兵部には、立ち入ることはできない。それなのに……兵部の排水管だけは運よく鉄格子が外れかけていた。こんなことあるのかな? 誰かが意図的に外れやすくしておき、その事実を彼に『気付かせた』としか思えない」
凜華の指摘に、裴元徽は薄く笑った。
「素晴らしい推理力ですね。流石は陛下第一の寵姫。ですがね、私は何もしていませんよ」
「本当に?」
「私は阿星の身元保証人にはなりましたが、それだけです。彼が宮城に入って以降、個人的に接したことは一度もない。疑うのなら、工部でいくらでも聞き込みをされるといい。大勢の部下が証言するでしょう」
「……そうみたいね」
凜華は事実を認めた。裴尚書が阿星に接触し、便宜を図ったという証言は一切出てきていない。二人は業務上の会話すらしていない。
「私に落ち度があるとしたら……」
裴尚書は顎に手を当て、思案するような素振りを見せた。
「阿星がいるところで、部下と宮城の構造や技術的なことについて議論したということくらいですかね。配管の劣化状況や、鉄格子の建てつけについてなど……。ですが、これは防ぎようのない事故です」
「故意に聞かせたのではなく?」
凜華は鋭く踏み込む。
「あなたは工部の長官なのだから、いくらでも話題を誘導できるでしょう。彼に知ってほしい情報を、偶然を装って耳に入れることくらい造作もないはず」
「買い被りすぎですよ」
裴元徽は苦笑した。
「建築や修繕の話に熱中すると、私も部下も周囲が見えなくなる。誰がいようと、話に花を咲かせてしまう。それだけのことです」
まさに暖簾に腕押しである。現に、彼は物理的な証拠を何一つ残していない。何を指摘しても「偶然だ」「熱中していた」と言えば通ってしまう。
「あなたと尚敬支さんは、工部の同輩であり友人だった」
凜華は視点を変え、動機に切り込んだ。
「そしてあなたは、彼の妻である伊娘さんを密かに愛していた。だから、伊娘さんの忘れ形見である阿星さんの復讐を助けても不思議じゃない。あなたは、無念の死を遂げた友人の仇を取るために、阿星さんに意図的に情報を流し――」
凜華が言い終わる前に、くくくと低い笑い声がした。
裴尚書は、心底愉快そうに笑っていた。
「仇を取る……? 友人のために……?」
笑いを持て余すように肩を震わせながら、裴尚書は凜華を見た。
その瞳には、侮蔑と哀れみが入り混じったような昏い光が宿っていた。
「無理もない。陛下の寵愛を一身に受けていれば、そのようなおめでたい考えにもなりましょうな。だが、あなたは男というものが、どういう生きものなのかわかっておられない」
冷や水を浴びせるような声に、凜華は一瞬怯んだ。
「仇を取るなど愚の骨頂。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。尚敬支が処刑されたとき、私がどう思ったか。悲しんだとでも? 憤ったとでも? いいえ、私は小躍りして喜んだのですよ」
「……」
「彼が有罪だろうが冤罪だろうが、そんなことはどうでもよかった。邪魔な男が消えてくれた。これでようやく、伊娘は私のものになる。そう考えて歓喜に打ち震えたのです」
裴尚書の顔に、生々しい苦悶の影が落ちた。
それは過去の傷口から今なお流れる血を舐めとるような、熱い執着に塗れた表情だった。
「私は、尚敬支が彼女に出会うよりもはるかに前から伊娘を知っていた。子供の頃から彼女を見つめ、彼女だけを愛していた。数えきれないほど求婚し、何通も恋文を送った。私の持てるすべてを、真心を彼女に捧げた。……それなのに、伊娘は尚敬支を選んだ」
彼の声は堪えきれない怨嗟を帯びた。
「二人が結婚すると知った時の私の絶望が、あなたに理解できますか。それは五臓六腑を素手で抉り出されるようなとてつもない苦しみだった。伊娘が他の男のものになってしまうなど、到底耐えられなかった。私は本気で死を考えた。短刀を喉元に突き立てて、この地獄から逃れようとした。それほどまでに伊娘を愛していたのです」
「……だったらなおさらよ」
凜華は食い下がった。
「だからこそ、愛する伊娘さんの子である阿星さんを不憫に思って助けたんでしょう」
「違う」
彼は氷のような目で凜華を射抜いた。
「薬師殿、畜生のオスが子持ちのメスの気を引こうとする時、どうするか知っていますか」
唐突な問いに、凜華は言葉を詰まらせた。
もちろん生物学的な知識はあるが……。
「メスが連れている子供を狙って、皆殺しにするのですよ」
裴尚書は、己の醜悪さを誇示するかのように、酷薄な笑みを浮かべた。
「そうしないと、メスは発情せず自分の子を産んでくれないからです。愛玩動物の代表である猫も、百獣の王である獅子もそうです。それが自然の理というものです。阿星が助けを求めて私の屋敷にやって来た時、彼を見て何を思ったか。同情? 憐憫? 冗談ではない。私は彼に、吐き気を催すほどの嫌悪と殺意しか覚えなかった」
彼の言葉には、一切の偽りがなかった。むせ返るような純粋な悪意がそこにあった。
「阿星は確かに伊娘が産んだ子だ。だが……その生意気な目元は、尚敬支にそっくりだった。私から伊娘を奪った男の面影が、あの少年の顔に張り付いていた。他の男の胤など、私は一秒たりとも見たくなかった」
「……」
「だから、彼を宮城に入れた後は徹底的に無視した。彼がどれほど過酷な環境に身を置こうが、こき使われて死のうがどうでもよかったのです」
裴元徽の視線が、ふと虚空を彷徨った。
「伊娘が、厳総管との間に生んだ幼子を始末したのはよかった。まさか本人まで死んでしまうとは……」
その瞬間だけ、本物の哀悼が顔を出した。声が震え、目元に痛ましい色が浮かんだ。
裴元徽にとって愛しいのは、伊娘ただ一人だけなのだ。
その他の人間には、たとえ彼女の血を分けた子供であろうと、一欠片の情も持ち合わせてはいなかった。
しかし、その悲哀の表情も一瞬の幻のように消え去った。
「……とでもいえば満足していただけますかな。後宮の女人方はこういう話がお好きなのでしょう?」
裴尚書は、けろりとした顔で嘯いた。
先ほどまでの怨念も悲哀も嘘であったかのように、飄々とした人を食ったような態度に戻った。
凜華は、背筋に氷をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
彼が今語った狂気の執念は真実か、それとも自分を煙に巻くための作り話か。
その境界線すら、彼の中では曖昧になっているのかもしれない。
「あなたのような人が一番恐ろしい」
凜華は内心畏怖しながら言った。
「自分の手は決して汚さず、直接的な命令も下さない。状況と知識だけを与えて、他人が自滅していくのを安全な場所から眺めている。何もせずに人を操れるあなたのような人が……一番の怪物よ」
その非難にも、裴尚書が痛痒を感じた様子はなかった。
「買い被りが過ぎると言ったはずですが」
裴元徽は涼しい顔で言い放った。
「それで? 陛下に直訴なさるおつもりですか。『裴元徽こそが阿星を操った真の黒幕だ』と。証拠はどこにあるのでしょう。私にあるのは、少年の母親に求婚して振られたという情けない過去だけですよ」
凜華は静かに首を振った。
「言わない」
「なぜ?」
「証拠がないからじゃない。私は政治のことはよくわからないけれど……あなたはこの国に必要な人だろうから」
裴尚書は満足げに頷いた。
「その通りです。宮城の建物は私が設計し、手足となる工部が建てている。国中に張り巡らされた水路もそうだ。建物内の隠し部屋も秘密の通路も、すべて頭の中にあり、この世に顕現させることができる。私は建築家として、己の仕事に誇りを持っている」
彼は両手を広げ、何かを抱き抱えるような仕草を見せた。
彼にとって、この城は自らが作り上げる巨大な作品でもあった。
「阿星さんは処刑される。尚家の人たちは全滅する。……あなたはそれで満足なの?」
「宮廷童子の一人や二人いなくなったところで、何も変わりませんよ。私の仕事や生活には、一分の狂いも生じません」
事実を述べる瞳には、阿星への憎悪すら消え失せていた。
黙り込んでしまった凜華を見て、裴尚書はいささか芝居がかった手つきで衣の埃を払った。
「後宮という閉鎖的な場所で暮らすあなたに、外廷の理を説くのは酷でしたね。どうか非礼をお許しください。ですが、朝廷は元からそういうところですよ。私は工部以外の領域には、とんと興味がありません。今後は互いの領域を侵さず、棲み分けして平和にいきましょう。それでは」
裴尚書は背を向けると、優雅な足取りで回廊の奥へ消えていった。
その後ろ姿を見送りながら、凜華は長く息を吐き出した。
――朝廷とは、伏魔殿。
今日ほどその言葉の重みと薄気味悪さを肌で感じたことはなかった。
今回、阿星に殺されたわかりやすい悪党たちよりも、己の手を動かさず他者を操る男の方がはるかに手強い。
(絶対に敵に回したくないわね)
凜華は身震いすると、手紙を懐に仕舞った。
冷たい風から逃れるように、景雲がいる清心殿へ戻っていくのだった。




