第203話 五石散三重奏殺人事件<十九>
景雲は、阿星を見つめながら、自身の過去へ思いを馳せていた。
今から十一年前、景雲はすでに皇帝に即位していたが、実権は摂政である太原皇叔が握っていた。
そのことに対して不満があるわけではない。
皇叔は亡くなるまで朝廷を取りまとめ、景雲の治世を支えてくれた。
地方の行政は、裁判も含めて執政官や監督官たちが司り、中央には報告しか上がってこない。
西部に赴任していた尚敬支が、おそらく無実の罪で処刑されたことを、景雲はこれまで知らずにいた。
もし自分が子供でなく、もっと地方にも目配りできていれば……麻薬を吸い、私腹を肥やしていた真の悪人たちを裁くことができていれば。
尚敬支は処刑されることもなく、残された家族が崩壊することもなかった。この類まれな才能を持つ少年が、殺人鬼に変貌することもなかったはずだ。
温侍郎、厳総管、鄧副統領。彼ら三人が高官として朝廷にのさばり、少なくない犠牲者を出し続けていたと思うと、景雲は己の眼の届かなさを呪わずにはいられなかった。
目の前の少年は、無知で無力だった昔の自分そのものだと思った。
「……阿星よ」
景雲の威厳のある声に、阿星は涙に濡れた顔を上げた。
「お前は子供ながら本当にあっぱれな奴だ。たいした男だ。よくぞ家族の仇を討った。余がお前の立場なら、同じことをしたと思う」
阿星は鼻をすすると、景雲を真っ直ぐに見つめ返した。
「陛下……僕は、高官を三人も殺して宮廷をめちゃくちゃにしました。結果として、陛下には多大なご迷惑をおかけしました。でも、信じてください。僕には、陛下に対して悪意や害意は微塵もありません」
阿星は縛られた身体のまま、できる限りの敬意を払うように深々と頭を下げた。
「陛下が僕の仕掛けた罠に感心し、褒めてくださったときは本当に嬉しかったです。これまで僕を褒めてくれたのは、母さんと姉ちゃんだけだった。殺害方法なんて決して誇れるものじゃないけど、僕という存在が初めてこの世に認められた気がした」
阿星は、どこか夢見るような表情になった。
「もし、父さんが処刑されず、僕たちが普通の家族として生きていたら。僕は文字を学び、計算を学び……工部の役人になって、陛下のために働きたかったです」
「工部か。確かにあそこは技術の粋が集まっている」
叶わなかった未来。歩むことのできなかった道。
もし歯車が一つでも違っていれば、この神童は、景雲の頼もしい腹心として、国の未来を築き上げていたかもしれなかった。
やがて窓の外から、かすかな光が差し込み始めた。
煌々と燃えていた蝋燭の炎は溶け落ち、深い闇を湛えていた夜空は東の方から白み始めている。長かった夜が終わり、朝が訪れようとしていた。
重苦しい空気の中、ポンと軽く手を打つ音が響いた。
凜華だった。彼女は大きく伸びをすると、徹夜の疲労を吹き飛ばすように、普段通りの軽やかな声で言った。
「さてと。夜も明けちゃったことだし、折角だからこのまま現場検証に行きましょうか。私も少しだけ付き合うよ」
景雲は凜華の意図を察したように頷いた。
口で語られただけの氷室の謎を実際に証明し、この一連の事件に終止符を打つ。
「そうだな。氷室の仕掛けを確かめておきたい」
景雲はゆっくりと立ち上がり、床に座り込んでいる阿星を見下ろした。
「その者の縄を解け」
皇帝の命令に、周囲の役人たちは慌てた。
「へ、陛下。この者は三人も殺害した凶悪な下手人でございます。縄を解くなど危険です」
「構わん。解いてやれ。こやつにもはや逃げる意思はない。それと……」
景雲は、背中で縛り上げられている阿星の両手が気になっていた。凍てつく土を素手で掘り返し、爪が剥がれかけ、泥と赤黒い血にまみれた痛々しい指先。
「血と泥で見苦しい。手当てしてやれ」
「はーい」凜華がすかさず返事をする。
景雲の命に、役人たちは恐る恐る阿星の縄を解いた。
自由になった両手を前に投げ出した阿星の前に、凜華が薬箱を持ってしゃがみ込んだ。
彼女は役人に命じ、たらいに人肌程度のぬるま湯を入れて持ってこさせた。
薬箱から清潔な布と、軟膏の壺を取り出した。
「痛むでしょ。ちょっとしみるよ」
凜華の手つきは、阿星を追い詰めた探偵の時とは打って変わり、手慣れた薬師のそれだった。
ぬるま湯で凍りついた泥と血を優しくふやかしながら洗い落とし、化膿を防ぎ炎症を抑える軟膏を、傷口を覆うようにたっぷりと乗せていく。
「どうして?」
阿星が呟いた。
「薬師さんは、僕を捕まえた張本人なのに。どうして手当てしてくれるの」
「これが私の本職だから。事件の真相を暴くのは、まあ……私自身の好奇心もあるけど、大抵は成り行き。今回は陛下に命じられたからやった。怪我人を手当てするのが本来の仕事。それだけだよ」
凜華は淡々と答えながら、手早く指先に清潔な布を巻きつけ保護していった。
阿星は包帯を巻かれた自分の両手を、不思議なものでも見るかのようにじっと見つめた。
復讐のために這いずり回っていた彼にとって、他者から向けられる厚意は久しぶりのものだったのだろう。




