第197話 五石散三重奏殺人事件<十三>
「鄧副統領は、宴で五石散を摂取し、深夜になって耐え難い薬熱に襲われ、涼を求めて庭園を徘徊し始めた。犯人は、鄧副統領のその行動を――いえ、その生理的な必然を予測していた」
凜華は、ひと際太い竹の幹に歩み寄った。
その表面には、細い糸で強く縛られたような不自然な擦れ跡が残っていた。さらに視線を下げると、霜柱の間に鋭く切断された獣毛の糸が見え隠れしている。
「これが、犯人が仕掛けた罠よ」
凜華の口から漏れた声に、景雲は油断なく周囲に視線を走らせた。
「罠だと? 凶器は見つかっていない。犯人は鄧を刺し殺したあと、凶器を持ち去ったのではないのか」
「持ち去る必要なんてなかった。凶器は跡形もなく消えたのだから」
「消えた?」
凜華は、竹の幹をそっと撫でながら説明を始めた。
「犯人は、この庭園の竹林の強靭な『しなり』を利用したの。でも、こんな太い竹を素手で引き倒すのは大人の男でも至難の業。だから『ねじり締め』という物理トリックを使った」
「ねじり締め……?」
「竹の先端と地面の固定点を太い縄で結び、その間に一本の頑丈な棒を差し込んで、独楽のようにグルグルと回転させてねじり上げていく手法よ。テコの原理が働いて、非力な者でも大人の男数人分に匹敵する強大な張力を生み出すことができる。竹の幹に残されたこの不自然な擦れ跡は、縄が極限まで締め上げられた証拠ね」
景雲は竹の傷跡を見つめた。
「力のない者でも罠を仕掛けられると」
「そう。太い竹を限界までたわませて固定し、見えにくい踏み糸で留めておく。そして竹の先端には、金属の刃ではなく……寒冷な屋外で水と型を使って作られた極厚の『氷の長剣』を括り付けておいたの」
「氷の長剣……!」
「暗闇の中、薄着で涼を求めて歩き回る鄧副統領が、張られた踏み糸に足を取られた瞬間――留め金が外れ、しなっていた竹が背後から恐ろしい勢いで跳ね上がる。先端に浅く固定されていた氷の刃が背中から彼の心臓を貫き……そのまま竹からすっぽ抜けて体内に埋まった」
景雲は遺体があった場所と竹林の距離を測るように見つめ、短く息を吐いた。
「なるほど。罠の仕掛けは理解できた。だが、氷の刃が凶器だとしたら、この周囲に氷の欠片や水溜まりが残るはずではないか。凶器が完全に消えるなど……」
「それが消えるんだよね。彼自身の『熱』によって」
凜華は血の跡を見つめた。
「五石散によって引き起こされた彼の体熱は、常人の比ではないほどに高まっていた。完全に体内に埋まった氷の刃は、猛烈な体熱に晒されて溶け始めた。でも……彼が絶命して心臓が止まれば、体内の熱の巡りも止まる。傷口周辺の肉は氷に冷やされ、外気も極寒。だからすぐに溶け落ちるわけではなく、徐々に細くなっていった。最後は血と水だけを残して跡形もなく消え去ったのよ」
「体温で溶けることも計算ずくで、氷の剣を仕掛けたのか」
「たぶんね。五石散の特性をこれでもかと利用している。恐ろしいくらいに悪知恵が働く」
凜華の推理を聞いた重要参考人たちの顔は、一様に青ざめた。これは寒さのせいばかりではないだろう。
竹の張力と氷の刃を利用した刺殺劇。
いずれも、物質の性質と人間の生理機能、自然の法則を計算し尽くした芸術的ですらある殺害方法だ。
「第三の殺人も、犯人が直接手を下したわけではなかった。舞台を整えて罠を仕掛けただけ。あとは被害者が罠に嵌まって死んで、自らの熱で証拠を隠滅してくれる」
凜華は、自分の腕を抱きしめるようにして身震いした。
「これはやっぱり……犯人なりの『美学』に貫かれた殺人よ」
「しかし、薬師殿。おかしくはないか」
そこに声をあげたのは、兵部侍郎の薛凌宇だった。彼は直属の部下である鄧飛虎と対立し、事件当夜も兵部内にいたため、重要参考人となってしまった。
「宴の夜の丑の刻(午前二時頃)、庭園を警備していた部下たちが、鄧飛虎が歩き回る姿を目撃している。私は宴から戻った後は、部下と詰め所で酒を飲んでいた。結局あいつは丑の刻まで歩いていたことになるが、それまでは罠にかからなかったということなのか」
薛凌宇の疑問に対し、凜華は真顔で言った。
「歩いていた? 人間の目撃証言なんてアテにはならないよ。これだけ見事な罠を組み立ててきた犯人が、そんな中途半端な時間に殺しをセットするとも思えない」
「では、丑の刻の目撃証言が間違っているとでも言うのか?」景雲が問う。
刑部の役人たちの間に緊張が走る。
薛侍郎が主張するアリバイは、部下たちと口裏を合わせたものである可能性が出てきた。
「嘘をついているわけではないと思う。彼らは本当に『動く鄧副統領』を見た。ただし、彼らが見たのは生きている彼ではなかったというだけ」
周囲の官僚たちが息を呑む。
「死体が歩いていたとでも言うのか」
「それも違う。れっきとした法医学と、温度差を利用した『時間差トリック』だよ」
凜華は薛凌宇の方を見た。
「薛侍郎、鄧副統領が殺されたのは、丑の刻(午前二時)じゃない。彼は、皆さんが酒盛りを始める前……子の一刻(深夜十二時)には、すでにここで竹の罠にかかり、絶命していた」
「死亡推定時刻が一刻(二時間)もずれているというのか。その根拠は?」
「死体は口を利かないけど、発見時の記録から推測できる。陛下、人間が死ぬと筋肉はどうなるかわかる?」
「硬直するな」景雲が当然のように言う。
「そう、タンパク質が結合して『死後硬直』を起こす。通常は全身に及ぶまでに数時間を要し、特に極寒の環境下では進行は極めて遅くなる。でも例外があるの。『異常な高体温』を伴って死亡した場合は、死後硬直は劇的に早く始まってしまう」
凜華は言葉に力を込めた。
「五石散による異常発熱と心臓を貫かれたショック。彼の身体は死の直後から信じられない速度で硬直を始め、さらにこの極寒の空気が『氷漬け』にして固定した。翌朝、遺体が発見された時点で、彼はすでに全身が硬直していた。もし薛侍郎の言う通り丑の刻に死んだのなら、発見時までにそこまで固まりきるはずはない。硬直の度合いから逆算すれば、死亡時刻は子の一刻の前だよ」
「待て、待て!」
薛凌宇が顔面を蒼白にして叫んだ。
「子の一刻に死んでいたなら、丑の刻に兵士たちが見たという『動く鄧飛虎』は一体なんだったのだ」
「それは、凍りついた血が『時限装置』になったの」
凜華は、傍らにある別の太い竹の幹を指差した。
「子の一刻、彼の背中に氷の刃が深々と突き刺さった。刃は竹から外れて体内に埋まり、彼は衝撃で前方に突き飛ばされ、目の前にあったこの太い竹に覆い被さるように激突した」
「立ったまま絶命したと?」
「傷口から溢れた血が外気に触れて凍りつき、彼の巨体を竹の幹に張り付かせて固定した」
景雲の目が見開かれた。
「そこから体内に残った熱が作用したのか」
「その通り。体内に埋まった氷の刃は、内側にこもった薬熱によって徐々に溶け、重心がずれていった。その重みのズレに耐えきれず、彼を固定していた血の氷が割れた」
凜華は、竹林から外に向かって倒れるようなジェスチャーを見せた。
「丑の刻。支えを失った巨体は前方に倒れ込んだ。兵士たちは、竹林がガサガサと揺れ、死体が倒れ込むシルエットを目撃した。彼らは翌日それを『鄧副統領がフラフラ歩いていた』と考えて報告したのよ」
辺りはしいんと静まり返った。
枯れ枝を揺らす冬の風だけが、ヒュウウと物悲しい音を立てた。




