第195話 五石散三重奏殺人事件<十一>
清心殿の分厚い扉が閉まると、吹き荒れる風の音は遠い海鳴りのようにくぐもった。
室内には最上級の白炭が赤々と燃える火鉢がいくつも置かれ、春のような暖かさが保たれている。
そこへ戻ってきた景雲と凜華を待っていたのは、徹夜で宮城を駆け回ったらしき刑部の役人たちからの報告であった。
役人たちは目の下に墨でも塗ったかのような濃い隈をこしらえながら、長大な報告書の束を広げた。
「――結論から申し上げますと、裴尚書の宴当夜の現場不在証明は鉄壁でございました」
乾いた咳払いをして、役人が読み上げる。
裴尚書は事件の夜、宴が始まる前から夜の八時過ぎまで、直属の部下たちと缶詰状態にあり、治水工事の予算配分や水路の工法について、延々と激論を交わしていた。
工部の官僚たちもまた数字と図面に憑りつかれた変態の集まりである。
彼らが「いや、ここの水門の角度は……」などと熱中し始めれば、時間が過ぎるのも忘れる。
「したがって、宴の席に裴尚書が遅れて顔を出した時には、温侍郎はすでに中座した後でございました。二人は顔を合わせてもいません」
つまり、裴尚書には温侍郎を誘い出して氷室に閉じ込めるような時間は一秒たりとも存在しなかった。
「ふむ」と景雲は頷きながら肘をついた。
「では、被害者三人の共通点はどうだ。温侍郎、厳総管、鄧副統領。彼ら三人は朝議などを除けば、職務上の接点も薄かったと記憶しているが」
「それにつきましては、少々……いえ、極めて興味深い事実が浮かび上がってまいりました」
役人がゆっくりと書簡をめくる。
こういう勿体ぶり方は、官僚の数少ない楽しみでもある。
「今を遡ること十一年前。西部地方、白淮河の流域にある都市・関嶺府にこの三人は赴任しておりました」
「十一年前の同じ時期、同じ街にいたというのか」
「当時、彼らに交流があったのかどうかは不明ですが」
ここで凜華が、卓の上に置かれていた茶菓子――甘酸っぱいサンザシの飴がけである――を齧りながら、手を挙げた。
「そういえば、なんで宮廷童子の阿星さんは重要参考人に入ってるの? どこからどう見ても子供だし、宮廷童子は宮城内に沢山いるんでしょ。宴でも大勢が雑用や給仕で駆り出されていたらしいじゃない。人数合わせで連れてこられたなら雑すぎるし。なんで阿星さんが?」
役人は、皇帝の前でサンザシを頬張る凜華に驚きつつも続けた。
「それは……阿星本人というよりは、彼の家族が厳総管たちと因縁を持っているからです。関係者の身辺を洗うのが捜査の基本ですので」
「家族が因縁?」
「ええ。まあ話すと長いのですが」
役人が淡々と語り出したのは、十一年前に起きたとある事件だった。
阿星の父親は、尚敬支という名の工部の役人だった。彼は白淮河の治水工事の現場責任者として、西部に赴任していた。
しかし、尚敬支はある大罪を犯して捕らえられ、首を刎ねられた。
罪状は、工事資金を横領し、あろうことか禁制品である麻薬「紫極丹」の密売組織と通じて私腹を肥やしていた、というものである。
紫極丹は曼陀羅華を主成分とした薬物で幻覚作用があり、依存性が高い。この国では厳しく取り締まられており、麻薬の密売人は例外なく死刑である。
そして、その尚敬支の悪行を「正義感に駆られて」告発したのが、他ならぬ温世傑、厳海全、鄧飛虎の三人だったというのだ。
物語はそこで終わらない。
官僚の没落には、残された家族の末路がセットで付いてくる。
尚敬支が処刑された後、彼の妻は途方に暮れた。
この妻というのが大変な美貌であり、彼女に横恋慕する者も多かった。罪人の妻であるにも関わらず、再婚話が引きも切らなかった。
結局彼女は再婚話を断り、尚敬支との間に生まれた娘と幼い阿星の二人を連れて、夫を死に追いやった厳海全の妾となった。
そこで景雲は顔をしかめ、苦々しそうに呟いた。
「妻と厳海全との間に、なんらかの取引があったと見るべきだろうな。連座を避け、子供の命を助けるかわりに……というところだろうか」
妾となった妻はその後、厳海全の子供を二人産んだ。
彼女も連れ子の姉弟も、屋敷では下働きの扱いだった。
厳海全の正妻やその子供たちに毎日こき使われて、気の休まらない日々だったようだ。
それでも表面上は、母子は平和に(少なくとも世間からはそう見えるように)暮らしていた。
家族に惨劇が起きたのは一年前である。
まず、阿星の十六歳の姉が突然、屋敷の井戸に身を投げて死んだ。遺書のたぐいはなかった。だが、年頃の娘が何を苦にして自死を選んだのかは容易に想像がつく。
娘が亡くなってすぐ、今度は母親が狂乱した。
彼女は深夜、厳海全との間にもうけた六歳と四歳の子供の首を麻縄で締めて殺害した。その後、自らも梁に縄をかけ首を吊って死んだ。無理心中を遂げた中で、阿星一人だけが生き残った。
自分の血を分けた子供を殺された厳海全は激怒し、阿星を身一つで屋敷から追い出した。
その阿星がなぜか宮廷童子となって生き延びていた、というわけである。
「おかしい」
そこで景雲が、鋭く口を挟んだ。
「尚敬支は、麻薬密売に手を染めた国賊として処刑された。国法によれば、重罪人の身内は六親等に至るまで公職に就くことを禁じられている。いかに最下層の小間使いとはいえ、宮城への出入りは許されないはずだ」
皇帝の指摘はもっともである。
元から宮廷は魑魅魍魎の巣窟だが、書類上のルールは異常なほど厳格である。
「おっしゃる通りです、陛下」
役人は平伏したまま、恐る恐る答えた。
「本来であれば不可能なのですが……阿星の身元保証人となり、宮城に入れた人物がおりまして」
「誰だ」
「裴尚書でございます」
景雲と凜華は顔を見合わせた。
役人曰く、厳海全はこの事実を知り、宮廷内に阿星がいることを忌々しく思っていたらしい。阿星を見かけるたびに、些細なことで怒鳴りつけていたという。
「すぐに裴尚書を呼べ」
景雲の声が、室内に響いた。
小一時間後。
工部に戻っていた裴尚書は、慌てる風もなく、ひざまずいて景雲の問いに答えた。
「仰る通り、阿星を宮廷童子として宮城に入れたのは私にございます」
「阿星を罪人の子と知ってのことか」
「さあ、罪人の子なのかと言われれば……疑念がございますゆえ」
裴尚書は上目遣いでとぼけてみせた。
「どういうことだ」
「尚敬支はかつて私の同輩であり、彼が西部に赴任してからも、たびたび手紙のやり取りをする仲でございました。お上の裁きに異論を唱えるつもりはございませんが、尚敬支は水と土のことしか頭にない清廉潔白を絵に描いたような男でした。彼が紫極丹の密売などで私腹を肥やしたなど、私には信じられません」
裴尚書の声には、静かな怒りがこもっていた。
「阿星の母親が錯乱し、子供たちを巻き添えにして死んだのは痛ましいことです。厳総管の怒りも理解できますが、連れ子の阿星に罪があるわけではないでしょう。追い出された阿星は、裸足のまま私の屋敷の門を叩きました。そして、母親から私のことを聞いたと申しました。『自分にもしものことがあれば工部の裴尚書を頼れ』と言われたと。私は阿星に亡き友の面影を見て、哀れみに耐えられませんでした。宮廷童子は雑用係、取るに足らない存在です。一人や二人増えたところで問題ないだろうと考えたのです」
「確かに子供に罪はないが……」
景雲はううむと唸る。
裴尚書が法を破ったのは事実だが、彼がしたことは人助けのようにも思える。




