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宸眷薬師の異世界調剤事件簿 ~ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない~   作者: kiyoaki
第二部 広がる世界、複雑化する事件

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第194話 五石散三重奏殺人事件<十>

 景雲は冷ややかな笑みを浮かべた。

「外部の者が侵入した形跡もないのに、厳海全の胃袋には『熱い粥』が収まった。これはどういう手品だ?」

 凜華はうんうんと唸りながら、宮廷の図面が広げられた卓の周りをグルグルと歩き回り始めた。彼女の脳内で、仮説が幾つも浮かび、組み替えられていく。

 ――五石散を飲まされた厳海全は宴を中座した。

 ――彼は自分の部屋に戻り、そこで熱い粥を食べた。

 ――だが、誰も彼の部屋に粥を運んでいない。


「……陛下」

 言いながら、凜華は歩みを止め、卓の上に残されていた生姜粥の空の器を手に取った。

 器の中を覗き込み、しげしげと眺めた。

「私たちは思い込みをしていたかも。『犯人は熱い粥を厳海全の部屋まで運んだ』という前提そのものが間違っている可能性がある」

「どういう意味だ」

「簡単な化学と物理の応用だよ。犯人は、熱い粥を運んできたわけじゃない」

「粥は熱くなかった?」

「そう、逆転の発想。あらかじめ冷たい粥を部屋に用意しておいて、ここで『加熱』したんだね」

「加熱しただと? 火の気もないのにどうやって」


 凜華は答えず、空になった粥の器をひっくり返した。

 分厚い木漆器のように見える器の底を叩く。小さな隙間を見つけると竹のピンセットを突っ込んだ。こじ開けると、パカッと底が外れた。器は二重底になっていた。

 中には、白く濁った泥のようなものが詰まっている。


「これは……なんだ?」

 景雲が顔をしかめながら覗き込む。

「生石灰が水と反応した後の残骸――消石灰だね」

「石灰だと?」

「うん。冷宮で見つかった麦角菌の処分方法と同じ。石灰石を高温の窯で焼いて作る生石灰は、水と接触すると激しい化学反応を起こす。その際に出る熱は、水が沸騰するほどの高温になる。現代……じゃなかった、私の故郷ではこれを利用して、火を使わずに温められる弁当箱がある」


 凜華はピンセットで、器の二重底の上部、粥の椀との間に挟まっていた小さな銅の皿を指し示した。

「犯人は、宴が始まる前――つまりアリバイが必要になる前の夕方にこの部屋に忍び込んだ。そして器の下段に生石灰を敷き詰め、その上にある『上皿』に一定量の水を入れた」

「水だと?」

 景雲が目を細める。

「ただし、普通に水を入れたのではすぐに反応してしまう。だからこの上皿の底に、針の先ほどの極めて小さな穴を空けた。水時計(漏刻)と同じ原理ね」

「水時計か……」

「穴から一滴、また一滴と極めて遅いペースで水が下段の生石灰へ垂れ落ちるように仕掛けられていた。真冬の部屋でも凍結しない程度の温度であれば、水は液体のまま時間をかけて落ちていく。水がすべて生石灰に到達し、反応がピークに達するのが、厳総管が宴を中座して帰ってくる戌の刻(午後八時)頃だったというわけ。犯人はその少し前に厳総管に五石散を盛ればよかった」


 凜華は器を卓に戻した。

「体温調節が狂っていた厳総管は、卓の上に湯気を立てる生姜粥が用意されているのを見た。そしてこれは米のお粥。米は高級食材で、誰でも喜んで食べる。厳総管は『誰かが気を利かせて差し入れた』と思ったんだろうね。彼は疑いもせずそれを平らげ、布団に潜り込み……自らの体温で内臓を破裂させた」

「つまり……」

 景雲は器を睨んだ。

「宴の夜、アリバイを持っている者たちも、宴の前にこの『遅効性の火鉢』を仕掛けておくことさえできれば、犯行が可能だったということか」

「そういうこと。宋薬師も韓女官も、アリバイがあるからといって重要参考人からは外せない。まあ、生石灰の発熱作用や、水が落ちる時間を正確に計算できる知識を持った人間ということにはなるんだろうけど」

「誰なのだ」

「わからない」

「わからんか……」


 凜華は感嘆とも呆れともつかないため息を漏らした。

「参った。捜査は暗礁に乗り上げたね」

 凜華は両手を広げて、お手上げのポーズをとった。

「犯人が直接粥を運んでいない以上、動機のある人たちのアリバイはもはや意味を成さない。数時間前に粥の入った器を置くだけなら誰でもできるから。女官でも、厨房の下働きでも、宴に出ていない人間も可能。容疑者は一気に、宮廷内の数百人、数千人にまで膨れ上がってしまった」


 事態は振り出しに戻った。

 いや、むしろ最悪の形で迷宮入りしかけている。

 氷室の凍死。

 熱い粥による熱灼死。

 どちらも完全犯罪に近いが……手がかりが一つ残っている。

「こうなると、最後の三人目。庭園で刃物によって刺殺された、鄧副統領の死因を洗うしかないね」

 凜華は、大きく伸びをしながら言った。

「直接的な接触を避け、間接的かつ心理的な罠ばかりを仕掛けてきた知能犯が、なぜ最後の一人だけ、リスクを冒して『刃物で刺す』という物理的な殺害に至ったんだろう」

 景雲が相槌を打つ。

「確かに刺殺は、犯人の美学に反するような気がするな」

 冷たい隙間風が、寝所を吹き抜けていった。

 誰かがくしゃみをするのを聞いて、凜華は再び解散を決めた。

 三人目の被害者、鄧飛虎の殺害現場の検証は持ち越されることになった。


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