第193話 五石散三重奏殺人事件<九>
凜華は、寝台の分厚い布団をペラリとめくった。
「生姜の成分であるショウガオールなどは血行を促進し、代謝を急激に跳ね上げる。五石散の熱ですでに暴走している身体にとっては、文字通り火に油を注ぐ行為よ。厳総管は熱い生姜粥を平らげ、さらにこの分厚い羽毛布団に潜り込んだ。結果どうなったか。五石散による異常な発熱代謝、生姜と粥の熱、羽毛布団の保温。これらが重なり合って、彼の体内に凄まじい熱の負荷がかかった。もともと五石散の毒素で脆くなっていた胃や食道の粘膜は、急激な代謝亢進と極度の鬱血に耐えきれず、組織の限界を迎えて次々と破綻した。彼は大量の血を吐き、体内からの過剰な熱負荷によって『熱灼死』したのよ」
凜華の解説が終わると、部屋には重苦しい沈黙が降りた。
凶器は五石散というよりは「温度と代謝の過負荷」そのものだった。
犯人は、厳海全に直接刃を突き立てたわけでも、猛毒を盛ったわけでもない。
彼に五石散を飲ませ、その後の彼の習慣か行動パターンを予測し、熱い生姜粥を用意した。あとは、本人が勝手に粥を食べて、勝手に死んでくれるというわけだ。
「……見事だな」
沈黙を破った景雲は、またもや感嘆した。
「温世傑の時は、真冬の『冷気』を利用して凍死させた。そして今回は、生姜と布団の『温気』を利用して内臓を破裂させた。一つの薬物が持つ禁忌を利用し、相反する環境を与えることで、二人を全く違う方法で始末したというわけか」
「陛下は随分と犯人のことを買ってるね。もしかして陛下が殺った?」
凜華が揶揄するように言うと、景雲は
「何を馬鹿なことを言っている。潰したいなら、堂々と粛清するまでだ」
とこれはこれで物騒な返しをした。
凜華は、生姜粥の残りを忌々しげに睨みつけた。
「犯人は、薬の効能を単なる知識としてではなく、生体への物理的なアプローチとして理解している。人間の『寒いから温まりたい』というごく当たり前の生理的欲求を逆手に取ったんだわ」
もし厳海全が、五石散の特性を知っていれば、熱い粥など口にせず、真冬の空の下を薄着で歩き回って生き延びられたかもしれないが……。
そこに、内務府内に聞き込みに出ていた刑部の役人が戻ってきた。
「申し上げます。宴の夜、厳総管は使用人に生姜粥を所望してはおらず。厨房でも作ってないとのこと。そもそも、誰かが厨房から生姜粥を運び出し、部屋へ届けたという目撃証言や痕跡が一切ないのです」
「誰も運んでいない……?」
凜華は腕を組んだ。
「じゃあ、誰かが外から持ってきて置いたわけじゃないってこと? でも、厳総管の部屋には間違いなく熱々の生姜粥があったわけだし。どうやって用意されたのか、そのからくりを調べなきゃね」
「熱い生姜粥か……。誰か、心当たりのある者はいるか」
景雲の問いに、手を上げたのは女官の韓春蘭だった。
「陛下。今の時期に、厨房から内務府に熱々の粥を届けるのは難しいと思われます」
「なぜだ」
「宮廷の構造上、無理があるかと」
韓女官は滔々と理由を述べた。
巨大な宮廷というものは、一つの独立した都市であると同時に、恐ろしく非効率的な建造物の集合体でもある。
特に冬場、この非効率さは「食の温度」という形で顕著に表れる。火災を恐れる宮廷の構造上、厨房は居住区画から遠く離れた場所に隔離されている。
そのため、出来立ての熱々料理を盆に載せて運ぼうものなら、高官の口に入る頃にはすっかり冷え切り、脂は白く凝固し、汁物はぬるま湯になってしまう。
だからこそ、厳海全の胃に入った「熱々の生姜粥」は、極めて特異な凶器である。
真冬の夜、どうやって厳海全の部屋に熱い粥を届けることができたのか。それを運んだのは誰か。
捜査の矛先が、厨房に出入りでき、かつ薬膳の知識を持つ二人の人物に向けられるのは、ごく自然な成り行きと言えた。
一人は宋亜歴。
もう一人は韓春蘭である。
「確かに、この二人が疑われる理由はわかる」
凜華は二人の方を見た。
「宋亜歴さんは薬師だから、生姜が持つ強力な発汗・発熱作用を熟知しているし。それに厳海全は生前、薬師房の予算を減らし、自分の薬を優先するよう圧力をかけていた。一方の韓春蘭さん。彼女なら、厨房から粥を運び出すことも容易なはず」
景雲が言った。
「その通りだ。特に宋薬師は動機も知識もある。だが、結論から言えば、二人とも白だろうな」
景雲の言う通り、二人が持つアリバイはどう崩そうとしても崩れないほど強固なものだった。
二人とも、事件の夜は宴に出席していたが、過酷な役割ゆえに会場から一歩も出られなかったからである。
まず、薬師の宋亜歴である。
彼は客として宴に招かれたわけではなかった。
宴の席で高官たちに、冬の養生のための薬酒を振る舞う役割を命じられていた。
上座から下座まで、酒杯が空けばすかさず注ぎに走り、効能を解説するという接待地獄である。
酔っ払った高官の絡み酒に付き合わされ、愛想笑いを浮かべながら会場を這いずり回っていた彼を多数の者が目撃している。厳海全が帰った後も同様で、わざわざ厨房で粥を煮て運ぶ暇などありはしなかった。
次に、女官の韓春蘭である。
彼女のアリバイもまた、悲惨な労働環境によって証明されていた。
宴の給仕を取り仕切る責任者であった彼女は、大勢の出席者の配膳、下膳、酒の補充の指揮で、文字通り戦場のような忙しさの中にいた。
次々と飛び交う注文を処理し、粗相をした下働きを叱責し、厨房と会場を絶え間なく往復する。
常に部下に囲まれて矢継ぎ早に指示を出していた彼女が、一人で宿舎から遠く離れた厳海全の私室に赴き、熱々の粥を置けるわけがない。部下の女官たちも、見回りの宦官も、春蘭が単独行動をとる隙など全くなかったことを証言している。
「接待地獄と、宴会の仕切りか。どちらもブラック認定されるレベルの過酷な業務だなあ」
「ぶらっくとはなんだ」
「ううん、こっちの話」
凜華は腕を組み、辺りを見回した。
「しかし、そうなると話が厄介ね。厳総管の部屋に粥を運んだ人間がいないということになる。まさか、生姜粥に足が生えて、自分からトコトコと歩いていったわけでもあるまいし」




