第191話 五石散三重奏殺人事件<七>
「温世傑が宴の席から退席したのは戌の刻(午後八時頃)のことだ。氷室の仕掛けが作られたのは、その直前の時間帯でなければならない。氷が溶ける時間を考えれば必然的にそうなる」
「ええ、その通り。犯人は宴の最中に抜け出し、急いでここに氷と塩をセットしたはず」
「ならば、私は犯人たり得ない」
裴尚書はきっぱりと言い切った。
「なぜなら、私は酉の刻(午後六時)から戌の刻(午後八時頃)まで、工部で部下たちと水利工事の図面を広げて議論していたからだ。その間は部屋から出ておらん。途中で茶を持ってきた者もいるし、証人はいくらでも出てくる。私が工部を出て、宴に参加したのは戌の刻以降だ。調べてみるがいい」
「アリバイがあるってことね。わかった」
凜華の視線は、次に寒さで身を震わせている皓妃に向かった。
「皓妃さんはどうかな。宴では温侍郎と揉めたとか」
皓妃はきっと顔を上げ、凜華を睨みつけた。
「無礼な! そなたに話すことなど何もない。たかが侍妾の分際で……控えおれ!」
凜華に対しては、あからさまに敵意を向けてくる。
薬師風情が陛下をたぶらかして……と思うと悔しくて仕方なかった。
自分は若く子供っぽいから皇帝のお召しがないのかと思っていたが、凜華もそう歳は変わらないように見える。
一体彼女の何がいいのか、皇帝は後宮に来るたびに凜華を呼び、朝まで共に過ごしている。目の前の女は夜ごとに愛されているのに、妃の自分は放置されたまま。
梅妃や麗妃に至っては寵姫の凜華に阿り、自分たちの殿舎に招いてもてなしていると聞く。こんな無位無官の女にへりくだってなるものか……と思えば頭に血が上った。
「そなたの問いには答えぬ」
「皓妃」
景雲の諫める声がする。皓妃は景雲に向き直った。
「陛下。陛下もあんまりです。こんなちんちくりんの薬師に捜査を命じるなんて。ちょっとばかり頭がいいからって……私はあなたさまの妃なのですよ。侮辱は受けませぬ」
「では、余の下問には答えるのだな」
「はい」
「凜華は余の伝言役だ。凜華の問いは余の問いと思え。心して答えよ」
「……はい」
皓妃はしぶしぶといった顔で頷いた。凜華は皓妃に歩み寄った。
「あなたの実家は塩の専売に関わっているとか。つまり、塩はいつでも手に入れられる立場にあった。温侍郎に侮辱されて動機も手段もある。違う?」
「そんな……。私は何もしてない!」
皓妃は蒼白になり、その場にへたり込みそうになった。
周囲の官僚たちも「やはり恥をかかされた怨恨か」とヒソヒソと囁き合う。
「……と疑うところだけど」
凜華はくるりと踵を返し、氷室の分厚い扉を手のひらで叩いた。
「皓妃さんも現時点ではなんともいえないね。少なくとも本人が実行するのは無理かな」
「なぜだ?」景雲が眉をひそめた。
「理由は三つある」
凜華は三本指を立ててみせた。
「一つ目は、腕力の問題。さっきも言った通り、氷室の閂は鉄で補強された超重量級だよ。華奢な皓妃さんが片手で持ち上げて、もう片方の手で氷柱をつっかえ棒にするなんて不可能。無理にやろうとしたら、着物の袖や裾が氷室の冷気や埃、水滴で汚れてぐしゃぐしゃになるはず。でも、宴で乱れた格好はしていなかったんでしょ?」
「そうよ。私は宴にずっといたし、着替えてもいないんだから」皓妃が食ってかかる。
「二つ目は、目立ちやすさ。皓妃さんは宴の主役で、華やかで目立つ格好をして、おまけに温侍郎と喧嘩して大泣きしている。出席者たちの注目の的だったはずだよ。そんな状態の人が、誰にも気づかれずに北側の寒い氷室まで往復して仕掛けをセットするなんて難易度が高すぎる。氷室に案内するにしても、温侍郎がついてくるとは思えない。そして三つ目は、塩の種類」
凜華は龍牙筒から取り出した小皿の粉末を指差した。
「董家が扱っているのは食用の塩でしょ。料理に使われる細かい精製塩だよね。だけど、今回使われたのは粗削りの岩塩。もし犯行に使うなら、自分の身近にある使い慣れた塩を使うはず。わざわざ作業用のガリガリの粗悪な岩塩を選ぶのは変な気がする。あと、そもそも精製塩だとこのトリックは成立しないし」
「なぜ精製塩だとだめなのだ」
「粒が非常に細かいから。氷に触れた瞬間、急激に反応が進んでしまう。表面がすぐに溶けて強度が落ちるから、ものの数分で崩れちゃうはずだよ。これじゃ罠が空振りに終わってしまう。粒が大きくて、不均一な粗削りの岩塩じゃないと時間を稼げないの」
凜華は皓妃に向き直り、少し首を傾げた。
「だから、皓妃さん本人が実行犯である可能性はゼロかな。感情的になって大声で喚いて目立っちゃうような人が、冷静に密室トリックを組み立てられるとも思えないしね」
「な、なにを……!」
侮辱されたのか庇われたのかわからず、皓妃は顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。
「つまり、知識と時間がある裴尚書にはアリバイがあり、動機と手段がありそうな皓妃には物理的に実行不可能……というわけか」
景雲は面白そうに目を細めた。
「ならば凜華よ。この氷室の仕掛けを作ることができ、かつ実行する時間があった者は誰なのだ?」
「わからない」
「わからんのか」
「も~無茶言わないでよ。まだ二人も被害者が残っているのに、昨日の今日でわかったら私は神だよ」
凜華はぷうと頬を膨らませた。それから、うーんと大きく伸びをした。
「というわけで、今日のところはこれまで! 氷室の検証だけでかなり時間食っちゃったし、まだまだ情報が足りなすぎる」
景雲は意外そうに眉を上げた。
「厳総管の現場の検分はしなくていいのか?」
「現場の保存は刑部にお願いするとして、調査は明日に持ち越し。焦って闇雲に動いても、見落としが増えるだけだよ」
凜華の言葉に、周囲の役人たちは戸惑ったように景雲の顔色を窺った。皇帝である景雲が頷くと、ようやく安堵の息を漏らす。
「わかった。本日はこれまでとしよう。皆の者、ご苦労であった。各自、持ち場に戻るがよい。ただし――」
景雲は、その場に残された六人の重要参考人たちを鋭い眼差しでねめつけた。
「事件の真相が明らかになるまで、お前たちには刑部の見張りをつけさせてもらう」
「陛下、私もですか?」皓妃が叫ぶ。
「当然だ。例外はない」
「そんな……」
皓妃はがっくりと項垂れた。ただでさえ、殺人への関与を疑われているのだ。
見張りなんかついたら、後宮でなんと言われるか。ここぞとばかりに尾ひれがついて、悪い噂を流されるに違いなかった。董家にとっても大ダメージだ。
「仕事以外の外出や、届け出なく誰かに会うことを禁ずる。おとなしく謹慎しているように。よいな」
裴尚書は不満げに顔をしかめたが、皇帝の命令とあっては逆らえない。他の面々も、青い顔のまま無言で頭を下げた。
彼らが刑部の役人に促されて氷室の前から立ち去っていくのを見届けると、凜華たちもその場を後にした。




