第190話 五石散三重奏殺人事件<六>
「取れたよ。扉の隙間、内側の閂受けの真下に溜まっていたわずかな水分と……何やらジャリジャリとした結晶状の粉末があるね」
凜華は龍牙筒の底に溜まった微量の液体と、細い匙を突っ込んで掻きだした粉末を小皿に絞り出した。
彼女はその粉末を顔に近づけ、光に透かした。
「綺麗なサイコロ型の結晶……。それに、空気中の水分を吸ってベタついている。精製された食塩じゃない。岩塩だね。しかもかなり粗削りなやつ」
「岩塩だと?」
景雲が怪訝な顔をした。
「氷室の鍵に、なぜ塩が付着しているのだ」
「時間をコントロールするためよ」
凜華は得意げな笑みを浮かべて、一同を見渡した。
「身分の高い人はやったことなさそうだけど、道の雪を早く溶かすために塩を撒いた経験はない? 水は本来、零度で凍る。しかし、塩を混ぜて塩水にすると零度以下になっても凍らなくなる。これを『凝固点降下』って呼ぶの。つまり、氷に塩をかけると、本来なら溶けないはずの冷たい環境下でも強制的に氷が溶け出し、水へと変わる現象が起きるわけ」
凜華は、小さな氷の破片を拾い上げ、小皿に残っていた岩塩をパラパラと振りかけた。
すると、真冬の寒空の下であるにもかかわらず、氷はパキパキと音を立てて亀裂を刻み、みるみるうちに溶けて水へと変わった。
「これが内側密室の正体。犯人は、宴の途中で異常発熱した温侍郎を直接氷室に案内したか、彼が氷室に向かうことを見越して、この扉の内側に『時間差で閉まる自動の仕掛け』をセットしておいたの」
凜華は扉の内側を指差した。
「氷室の扉の内側には、持ち上げてから下ろすと枠にはまって施錠される、鉄補強の『落とし閂』がついている。持ち上げた状態から手で下ろせば内側から鍵が掛かる仕組みだけど、重力で自然に下に落ちようとする力も働いている。具体的な手順はこうよ。まず犯人は、この内側の閂を限界まで高く持ち上げ、その下に『適当な大きさの氷の塊』をつっかえ棒として挟み込んだの。これで閂は途中で止まり、扉は開いたままになる。そして、そのつっかえ棒の氷の上に、たっぷりと岩塩を振りかけておいたの」
景雲が口を挟む。
「そんな仕掛けを置いて、放置してしまって大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。岩塩をかけられた氷は、真冬の冷気の中でもゆっくりと溶け続けるから。温侍郎は猛烈な熱に浮かされ、開け放たれた扉から氷室へ飛び込み、服を脱ぎ捨てて絶命した。そして数十分後、つっかえ棒だった氷が塩で溶けて崩れると、支えを失った重い閂が自重で下へ滑り落ちた。閂は受け具にはまり、氷室の扉は内側から施錠されたというわけ」
「犯人が密室にした理由はなんだ」
「時間稼ぎでしょうね。宴の最中に、厨房の人間が氷を取りにくることもあるだろうし。死体が見つかって騒ぎになると動きづらくなるから」
「証拠は残らんのか」
「まず残らない。つっかえ棒だった氷は溶けて水になり、隙間から外へ流れ出るか土に染み込んでしまう。残るのは、内側から閉ざされた閂と死体だけ。犯人が中にいなくても、時間が来れば内側から鍵が掛かる密室の完成よ」
鮮やかすぎる謎解きに、誰も声を発することができなかった。
魔法でも呪いでもない。
真冬の冷気と氷の融解、そして岩塩。身の回りにあるごくありふれた自然現象と閂の構造を組み合わせただけで、これほどまでに正確な密室装置が組み上がってしまうとは。
「見事なからくりだ」
景雲がため息をついた。
「五石散の性質で獲物を冷凍庫に追い込み、氷と塩で内から扉を閉ざす。なんという悪辣で無駄のない手口か。暗殺組織の力技とは思えんな」
「なんか美学みたいなものを感じるよね。でも、犯人もこれは想定してなかっただろうね」
凜華は龍牙筒をポンと叩いた。
「氷が溶けた水は流れても、内側の受け具の下に残った岩塩の微小な成分や水滴までは消えない。そして、扉のわずかな隙間からそれを吸い出せる龍牙筒が、私の手にあることまでは」
凜華は言葉を切ると、居並ぶ重要参考人たちを見た。
「とはいえ、これはトリックが単純に見えるだけで実行はものすごく難しいよ。知識があるからといって簡単にできるものじゃない。ツボを正確に突く鍼治療と一緒」
まず、氷室の扉というものは、外気から内部の冷気を守るために堅牢な樫の木で作られ、内側の落とし閂もかなりの重量がある。どれくらいの大きさや硬さの氷をつっかえ棒にすれば、閂の重みに耐えつつ、落ちるまでの適切な時間を稼げるのか。
さらに、真冬の気象条件がある。
その日の気温、湿度、風の強さ。それらを計算し、氷の上に振りかける岩塩の量を調整しなければならない。
塩が少なすぎれば氷は溶けず、温侍郎が入った後も扉は開いたままだ。逆に塩が多すぎれば、温侍郎が到着する前に閂が落ちてしまい、罠は空振りに終わる。
つまり、この仕掛けを考案し、かつ実行した人間は物質の融点に関する知識だけでなく、建造物の構造や金属の重量、さらには摩擦係数までをも肌感覚で理解していないといけないのだ。
「それなら話は早いよね」
凜華はいささか勿体ぶりながら、一人の男の前に歩み寄った。
「宮中において、建造物の構造を知り尽くし、鍵や閂の仕組みに通じ、なおかつ木材や金属の重量計算を日常的に行っている人物。……工部尚書の裴元徽さん」
名指しされた裴元徽は、凜華に指を突きつけられても、慌てる風もなく唇をわずかに歪めただけだった。
「何かね。私が温侍郎を暗殺したと?」
「そこまでは言ってないです。あなたの見解を聞きたいだけ」
「確かに、閂の構造も氷と塩の反応も私は知っている。あの重い落とし閂を支えるのに、三寸四方の氷柱に一握りの岩塩をかければ、およそ半刻(約一時間)で溶け落ちるという計算も、私なら暗算ではじき出せる」
裴元徽は、芝居がかった手つきで己の顎を撫でた。
「だがね、薬師殿。あなたも言ったとおり、机上の計算と実際の犯行は別物だ。私には、その罠を仕掛けるための『時間』が決定的に欠けているのだよ」
「時間とは?」
凜華は首を傾げた。




