第185話 五石散三重奏殺人事件<一>
さて、古今東西、人間という生き物は「己の脳髄をいかに合法・非合法にぶっ飛ばすか」という一点において並々ならぬ情熱を傾けてきた。
中でも特定の麻薬が見せる奇妙な作用は、時に笑えない悲劇を生み出すものである。
奇妙な麻薬の筆頭格、魏晋南北朝時代の中国で大流行した「五石散」は、服用すると全身の血流が暴走し、真冬でも汗だくになるほどの異常な熱感をもたらす。
昔のインテリたちはこの薬による発熱を「生命力の横溢」と勘違いし、熱を発散させるために真冬に薄着でウロウロと歩き回ることを「風雅な振る舞い」として持て囃した。
そして、これが「散歩」の語源になってしまった。
本来、散歩とは、ヤク中が薬をキメて徘徊することなのである。
その日の朝、壺天閣では、凜華がぶつぶつ言いながら、奇妙な物体を相手に格闘していた。
机の上に置かれているのは、豚の皮をぐるぐると巻き付けられたゆで卵である。
彼女はその豚皮巻きの表面を指で探り、狙いを定めると、右手に握った龍牙筒をブスリと突き立てた。
「あーもう! 難しい! 角度が浅いと皮下組織に届かないし、深いと一気に皮下組織を突き抜けて筋肉の層まで貫通しちゃう。薬液を入れる前に細胞をズタズタにしてどうするの。あーあ、医師か看護師の資格も取っておけばよかったなあ」
要するに、彼女は今、注射の練習をしていた。
現代日本において薬剤師だった凜華は、当然ながらシリンジの構造も、細い針から薬液を押し出す際の流体抵抗やポアズイユの法則も頭に入っている。
まさか転生して前世の記憶を持ったまま、自分の発案で注射器を開発するとは思わなかった。
作ったからには使うしかないのだが、問題があった。
使う側の腕、すなわち凜華自身のインターフェースとしての未熟さである。
知識として頭に入っていることと、実際に人間の皮膚を貫き、ピンポイントで針先を留める技術は別物だ。
薬剤師は薬の調合と管理のエキスパートではあるが、患者に針を刺す法的な権限もなければ、そのための実践的な訓練も受けていなかった。
「これじゃあ患者を助ける前に、激痛でショック死させかねない。豚皮巻き卵じゃなくて、生きた人間で練習するのが一番なんだけど……」
などと物騒な独り言を呟きながら、卵を蜂の巣にしていた、まさにその時である。
「り、凜華さぁぁぁん! 大変です、大変なことが起きました」
扉が、蹴破られんばかりの勢いで開いた。
外に出ていた寿寿が、寒さで鼻の頭を真っ赤にしながら転がり込んでくる。
「ひゃあっ!」
驚いた凜華は、自分の親指に針を突き立てそうになり、慌てて龍牙筒を放り出した。
「ちょっと寿寿、危ないよ。これは卵だからいいけど、もし患者だったら事故に――」
「卵でも豆腐でもいいですから聞いてください。死んだんです、死体が出たんです。しかも同時に三人も!」
「……はい?」
寿寿の血相を変えた報告に、凜華は間の抜けた声を出した。
宮中という場所は、権力闘争やら何やらで、人死に自体は(残念ながら)それほど珍しい現象ではない。
事故も多く、酔っぱらって池に落ちる者もいれば、食あたりで急死する者もいる。
だが、三人同時に亡くなるのは珍しい。
「昨夜、外廷では皇族や高官たちが集まる大宴会があったそうで。そして今朝……あちこちで、三人の高官が不可解な死を遂げているのが見つかったんです」
寿寿がもたらした情報は、あまりにも奇怪かつ荒唐無稽なものであった。
一人目は、戸部侍郎の温世傑。
戸部といえば国家の財政や戸籍、税収を握る組織であり、彼はナンバー2にあたるエリート官僚である。
そんなやんごとない高官が、なんと宮中の厨房裏にある「氷室」の中で死んでいたというのだ。
今は真冬である。
宮中の庭園にある池には分厚い氷が張り、外に立っているだけで吐く息は白い。
氷室の中など、考えるだけで身の毛がよだつ冷凍庫である。しかも奇妙なことに、温世傑は「一糸まとわぬ全裸」の状態で、頭から冷水をかぶったような姿でカチコチの凍死体となっていた。
さらに、氷室の扉には内側から錠が下りていたという。完全な密室である。
「氷室で全裸……。体温調節中枢の麻痺による『矛盾脱衣』現象かな。極限の低体温症に陥ると、末梢血管が急速に拡張して異常な暑さを感じ、自ら服を脱ぎ捨ててしまうことがあるけど。なんでそんなところに入ったんだろう」
「厨房の氷室ですよ? お風呂上りに涼むために入ったとは思えません」
二人目は、内務府総管の厳海全。
物品調達から人事まで牛耳る、実質的な宮中の大番頭である。
彼は自室の豪奢な寝台の上で死んでいた。
こちらは物理的な鍵こそかかっていなかったものの、分厚い布団を握りしめ、目をひん剥き、口からおびただしい量の血を吐いて死んでいたという。
「ふむ。こちらは典型的な毒殺か、急性の出血性胃潰瘍、あるいは食道静脈瘤の破裂かな? 他殺か病死かまだ判断できないね」
そして三人目。宮城守備隊の副統領で将軍の鄧飛虎。
宮中の警備と要人警護を司る武官のトップクラスである。彼は自室でも氷室でもなく、庭園の池の畔で胸に深々と刃物を突き立てられて倒れていた。
「氷室で凍死、自室で吐血死、そして庭園での刺殺。死因も見つかった場所も見事にバラバラね」
凜華は腕を組み、医学的かつ論理的な思考を巡らせた。
死因も場所も全く異なる三つの死。
普通に考えれば、これらは全く無関係の別々の事件である。
しかし、宮中の要職にある三名が、同じ宴に出席した夜に非業の死を遂げたとなれば、これを単なる偶然で片付ける者はいない。
現在、朝廷の官僚たちはパニックの真っ只中にあった。
「これは何かの反乱だ!」
「外部の暗殺組織が宮中に入り込み、高官を殺して回ったに違いない」
「次は私の首が狙われるかもしれん!」
と誰もが疑心暗鬼に陥り、軍部と刑部が総出で宮中の封鎖と犯人探しに奔走しているという。
「なるほどねえ。反乱組織による同時暗殺。その線もあるか」
だが冷静に考えれば、暗殺組織のやり方としては不自然だ。暗殺というものは迅速かつ確実に行うべきものであり、一人をわざわざ氷室に連れ込んで服を脱がせて凍死させ、もう一人を毒殺し、もう一人は刃物で直接刺すなどという、手間も手段もバラバラな殺し方を選ぶとは思えない。
そこへ、バタバタというせわしない足音と共に李元が駆け込んできた。
普段は穏やかな表情の彼も、隈の浮いた目で疲労困憊の様子だった。
その額には脂汗が滲んでいる。
「凜華殿。お迎えに参りました。至急、私に同行していただきます」
「李元さん、お疲れさま。で、行き先は?」
凜華がとぼけてみせると、李元は深々と息をついた。
「決まっておりましょう。陛下がお呼びです」
「だと思った〜!」
この未曾有の異常事態にあって、景雲は官僚たちを統率しなくてはならない。
おそらく、この不可解な三つの死体の謎の解決を命じられるだろう。
「仕方ないね。豚皮巻き卵との格闘は一時休戦」
「なんでもいいですが、美味しそうな戦いですな」
李元は腹が空いているのか、ゆで卵を恨めしげに見た。
凜華は寿寿が持ってきた外套を羽織った。
先日の蟻木精を使った暗殺未遂事件で多少焦げてしまったが、そこだけ丁寧に毛を切って目立たないようにしてある。
凜華は、机の上に転がった龍牙筒も薬箱に入れた。
人間相手に注射を打つ腕はまだないが、この極小の針先が捜査に役立つかもしれない。




