第184話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<十>
「大丈夫だって。陶水さんの腕なら傷なんて残らないし、残ってもいいよ。気にしないから」
凜華の真剣かつ全幅の信頼を寄せた眼差し。
それを受けた陶水は、一瞬だけ水色の瞳を揺らし、躊躇いを見せた。皇帝の女の肌に、自ら作ったとはいえ蛇の牙を突き立てるのだ。これは大罪である。
だが、職人としての矜持と、未知の技術を完成させたいという渇望が恐怖を上回った。
陶水は無言のまま、試作機を手に取った。
鍼は本来、血管や神経を避けて刺すものだ。逆に言うなら、血管の位置を正確に覚えていないと鍼は刺せない。
これまで避けていた部分を新たなツボと思って刺すなら、どうということはない。いつもの治療と同じだ。
陶水が纏う空気が一変した。
彼の長い指が、凜華の左腕にそっと触れる。皮膚の下にある層や、血管の走行を捉える触診。
「……少しチクリとします」
低い声で告げると同時に、陶水は針の先端を上にして、皮膚に対して浅い角度で滑り込ませた。
「あ……」
凜華が小さく声を漏らす。それは痛みによるものではなかった。あまりにも滑らかな刺入に驚嘆したのだ。
針が静かに皮膚を貫き、静脈の壁を突破する。
不透明な竹の筒では、現代の注射器のように内部を目視することはできない。だが、陶水はそこで筒をわずかに引き、押し子に伝わるかすかな陰圧の手応えと、針の付け根にじわりと滲んだ一滴の赤い血でそれを見抜いた。
血管内に間違いなく到達している証拠、「逆血」の確認である。
「入りました」
陶水は呟くと、押し子に親指を添え、ゆっくりと、一定の圧力で生理食塩水を凜華の血管内へ押し込んでいった。
漏れもない。血管が破れることもない。完璧な注入である。
針が抜かれると、李元が慌てて清潔な綿で押さえる。
「……素晴らしい」
凜華は、興奮で頬を上気させながら言った。
「完璧よ。刺入時の抵抗も最小限だった。陶水さん、あなたの指はこの針を扱うためにあったのね」
その惜しみない賞賛の言葉に、無表情な陶水はわずかに視線を泳がせ、ほんの少しだけ嬉しそうに頷いたのだった。
後宮にやってきた景雲は、長楽殿の居間でこの世の終わりのような顔をして絶句した。
「お前……まさか本当にその腕に、あの蛇の牙を刺したというのか」
景雲の声は、怒りよりも強烈なショックで震えていた。
彼は無理やり、凜華の左腕を掴むと巻かれていた薄い絹の包帯を乱暴にほどいた。だが露わになった肌には鬱血もなく、腫れもなく、どこに針を刺したのか肉眼ではほとんど判別できないほどの微小な点があるのみである。
陶水の技術は、景雲の予想を遥かに超えていた。
だが、それが景雲の男としてのプライドを逆撫でした。
「私以外の男に針を刺されるとは……!」
景雲はワナワナと震えながら、腕を組んで天井を仰いだ。
「しかも彩煥殿で。これは暴行ではないか。こうなったら、あの陰気な男を捕らえて五馬分屍の刑に……!」
「ちょっと何言ってんの」
一人で激怒し、衝撃を受けている最高権力者をよそに、当の凜華は呑気そのものであった。
彼女は自分の腕をさすりながら、満足げに頷いている。
「とりあえず今のところ熱もないし、腫れてもいないから。これからは自分で自分に打って試さないとね。明日から、みかんの皮とかを使って刺入の練習よ」
「じ、自分で自分に、だと?」
「うん。作ったからには、私も注射を打てるようにならなくちゃ。あとは練習あるのみ!」
景雲は、恨めしそうに凜華を見た。
この女は、自分の身体が皇帝の専有物であるという自覚が決定的に欠如している。
だが、ここで怒って注射器を取り上げようものなら、凜華はどれほど怒り、悲しみ、自分を軽蔑することか。……そうはなりたくない。
「……鍼だ」
景雲は、突然虚空に向かって呟いた。
「え?」
「陶水は鍼灸師だ。お前は今日、腕が凝っていたから、少しばかり変わった形の鍼を打たれたのだ。そう、これは治療だ……。純然たる医療行為だ。暴行でもなければ、浮気でもない」
景雲は、壁に向かいブツブツと念仏のように唱え始めた。
「そうだ。治療だ、治療。明日からお前が一人でやるのも練習だ。決して、他の男の技術に魅了されて肌を許したわけではない。うむ、そういうことだ。私は寛大だからな、医療の発展を温かく見守ってやるのだ……」
「陛下、大丈夫?」
「うるさい! 私は今、皇帝としての度量の広さを自らの心に刻み込んでいるところだ!」
こうして景雲は拗ねつつも、凄まじい精神力と涙ぐましい自己暗示によって、なんとか己の心に折り合いをつけたのだった。
そして数日後、無事に完成した注射器が外廷にてお披露目された。
これを検分した官僚たちは、「注射器」という名称では箔がつかないと言い出し、「皇帝御製 龍牙筒」という仰々しい名前をつけて登録してしまった。
開発に景雲は関わっていないのだが、権利関係で面倒なことになりそうな場合は、全部国のものにしておこうという方針だった。
凜華の「龍じゃなくて蛇の牙でしょうに。あっ、薬用炭と同じパターンか……」というツッコミも流されてしまった。
国有とした上で、朱家には龍牙筒の事実上の独占製造権と使用権が許諾された。
元々素材の調達は朱家にしかできず、作ることができたのも陶水の技術あってこそなのでこれは仕方ない。
朱家も南部の希少な毒蛇の牙を使う以上、量産できないことはわかっている。彼らは、龍牙筒そのものの販売はせず、注射の技術を売ることにした。
龍牙筒は凜華と朱家のみが使用し、門弟が注射の腕を磨く。
製造および注射の指導役に、陶水が任命されたのは当然のことだった。
陶水は開犀の助手から一躍、朱家の二番弟子、三番手の薬師となったのだった。
結果として、国内に奇妙なお触れが出回ることとなった。
『南部に住まう特定の毒蛇を捕らえ、傷つけずに牙を持ち込んだ者には、朱家が蛇と同じ重さの純金でこれを買い取る』
この噂は、瞬く間に南部へと広まった。
農民や猟師たちは目の色を変え、農具を放り出して山野へ駆け込んだ。
各地で大規模な蛇狩りが繰り広げられたが、素人がいきなり毒蛇などを扱えるはずもなく、当然相応に噛まれて犠牲者を出しつつ、一時期、山から蛇がいなくなるほどの騒ぎとなった。
もっとも「蛇と同じ重さ」という条件に目をつけ、悪賢い輩が蛇の腹に石や鉛を詰め込んで重さを水増しする、といった詐欺が続出した。
これには朱家の検分役も胃袋の中身までいちいち確認して査定せねばならず、あまりの労力と財政の圧迫から「牙のみを無傷で持ち込んだ者に、牙の重さの百倍の金を支払う」と改訂されることとなる。
厳選された蛇の牙は、朱家の工房において研磨され、「龍牙筒」へ加工されていった。
医学の歴史は、皇帝の嫉妬をすり抜け、一部の生態系すらも破壊しながら、逞しく前進していくのである。




