第183話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<九>
だが、道具が完成しても、実戦への道はまだ遠かった。
「……入らない。どうしても、皮膚の張力に負けてしまう」
凜華は、練習用の豚の皮を相手に四苦八苦していた。
針先を垂直に当てても、皮膚がゴムのように逃げてしまい、無理に押し込もうとすれば組織を破壊してしまう。これでは血管を射抜くどころではない。
見かねた陶水が、背後から音もなく近づいた。
「……力で刺すのではない」
陶水の低い声が、凜華の耳元で響いた。
彼は迷いなく、凜華の右手を握った。
「えっ」
驚く凜華の指を、彼は自分の指で導き、豚の皮のある一点を触らせた。
「層を見るのです。表皮、真皮、その下の皮下組織と筋膜。人体は平面ではなく、密度の異なる層が重なった地図だと思ってください。その境界線にある隙を見つけるのです」
陶水の指先から、熱が伝わってくる。
その指は驚くほど繊細で、同時に岩をも穿つような確固たる意志を感じさせた。
凜華は、彼の指を通じて、皮膚の下にある目に見えない構造が、立体的な地図として脳内に浮かび上がるような錯覚を覚えた。
その時、凜華の脳内で数式と直感が火花を散らした。
「わかった。垂直に切るからいけないんだ。陶水さん、この針先、今の円錐形じゃなくて片面だけを斜めに削ぎ落として……斜面を作ってください」
「斜面……?」
「そう。先端を斜めにカットすることで、一点にかかる圧力を最大化しつつ、組織を刀のように切り裂いて道を作る。これなら、最小の力で層を突破できる!」
凜華が計算尺で弾き出した理想の角度は、約十五度。
陶水はその意図を瞬時に理解した。
彼は再び砥石を手に取り、牙の先端を斜めに、鏡面のような滑らかさで削ぎ落とした。これこそが、現代の注射針においても採用されている「ランセット・ポイント」である。
「いける……これならいけるわ!」
完成したプロトタイプの注射器を手に、凜華は武者震いした。竹筒になったのは意外だが、性能としてはまったく問題ない。
陰気な天才と異世界に転生してきた薬師。
二人の異常な執念が、この時代には存在し得ない「禁断の牙」を生み出したのである。
その夜、後宮を訪れた景雲は、目を輝かせて「針先のベベル加工がいかに革命的か」を熱弁する凜華を半ば呆れ、半ば愛おしそうに見つめた。
「お前がそこまで言うのなら、その蛇の牙とやらは、私の首筋を狙う暗殺者の刃よりも鋭いのだろうな」
「陛下、例えが物騒だって。これは命を救うための医療機器なんだからね。暗器じゃないんだから」
凜華が不満そうに、ぷうっと頬を膨らませる。
「しかし、その注射器とやらが悪用されればとんでもない兵器になるだろうに。血管に直接毒を注入されたら助かるまい」
「それはそうだけど。悪用はさせないから」
景雲は笑いながら長椅子に深く沈み込んだ。
凜華の語る血の道の探究に耳を傾けながら、相槌を打つ。
長楽殿に流れる穏やかな時間は、やがて来るであろう、注射器が実際に使われる日を待っていた。
そして翌日。
彩煥殿の卓上に、完成した試作一号機が据えられた。
「……ついに完成したわ」
凜華は、改めて愛しげにその器具を持ち上げた。
本体は、丁寧に節を抜かれ、内側を鏡面のように磨き上げられた苦竹である。黒曜石のような光沢を放つ竹筒には、冶金技術で鍛えられた銀の金具が嵌め込まれ、押し子の先端には蜜蝋と植物油で煮込まれた鹿革が完璧な気密性を保って密着している。
何より目を引くのは、先端に取り付けられた「針」であった。
虺濃刺虺の牙。
元来、獲物に猛毒を送り込むための自然界の凶器は、陶水の常軌を逸した指先の研磨によって、組織を切り裂くための斜面を持つ、鋭利で完璧な中空の注射針へと生まれ変わった。
「本当に、竹の筒と蛇の牙で人体に薬が入るのか?」
陽気な――というより、この場においては完全に空回りしている朱家の開犀が、懐疑的な視線を送る。
「物理法則を舐めないで。パスカルの原理と、この完璧な密閉構造があれば水の一滴たりとも逃さない」
凜華は、用意していた生理食塩水を竹筒に吸い上げ、上に向けて押し子をわずかに押し込んだ。
シュッ、と。
牙の先端から、銀色の細い糸のような水柱が、真っ直ぐに空中に噴き出した。漏れは一切ない。
「ひっ!」
それを見た麗妃が、怯えたように扇で顔を覆った。医療機器とはいえ、鋭利な刃物には変わりない。
傍らに控える李元に至っては、万が一この暗殺器具のようなものが凜華に向けられた時のことを考え、音もなく剣の柄に手をかけていた。
だが、凜華の目は爛々と輝いていた。
人間の知恵が自然の造形を利用して、人体という深淵、すなわち血管へ直接アクセスする歴史的な鍵を作り上げたのだ。どうして完成を喜ばずにいられようか。
「さて、最終試験よ」
凜華は、迷うことなく自身の左腕の袖をまくり上げた。
白くなめらかな前腕が露わになる。
彼女は傍らに用意していた強い火酒を布に染み込ませ、手慣れた手つきで肘の内側をキュッと拭き上げた。
これは消毒代わりだ。ツンとしたアルコールの匂いが漂う。
彼女は再び生理食塩水で満たした注射器を、陶水に差し出した。
「これを私に打ってください。肘正中皮静脈……この、肘の内側の青く浮き出ている太い血管よ」
「なっ……!」
真っ先に悲鳴を上げたのは、麗妃であった。
「凜華さん、だめよ。気でも狂ったの。あなたは陛下のものなのよ。その肌に、万が一にも傷をつけるなんて絶対にだめ。もしそんなことをして傷跡でも残ったら、私は陛下になんて申し開きをすればいいの」
麗妃は半狂乱になって凜華に取りすがった。
凜華は皇帝の所有物。それを故意に傷つけたとあっては、どれほど怒ることか。制止しなかったとなれば、自分も罰せられてしまう。
李元もまた「おやめください。陛下が知れば激怒されますぞ!」と青ざめている。
もし景雲が本気で怒れば朱家はおろか、彩煥殿そのものを更地にしかねない。
しかし、凜華の好奇心と探究心は誰にも止められない。




