第182話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<八>
開発は、さっそく大きな壁にぶち当たった。
凜華が注射器の筒に望むのは、高い圧力に耐えうる「完全な密閉」である。
素材には、この地で最も丈夫で加工のしやすい「苦竹」が選ばれた。竹の節を抜き、内部を極細の研磨剤と絹布で磨き上げ、鏡面のように滑らかにした筒。
そこに、朱家の冶金技術で作られた金属の押し子を通す。
しかし……。
「ダメね。噴き出しちゃう」
凜華は悔しそうに唇を噛んだ。
筒の先端に細い中空の針(これは朱家の冶金技術でなんとか形になった)を装着し、水を吸い上げて押し出そうとすると、薬液は針から出るよりも先に、筒と押し子のわずかな隙間からプシュッと勢いよく逆流してしまう。
「先端の流路面積が狭すぎるせいで、内部の圧力が跳ね上がってしまうのね……。この微細な隙間を埋める、理想的な弾性体が必要……。動物の脂肪がいいのかな。それとも煮詰めた松脂?」
凜華が計算尺を片手に、ブツブツと数式と素材名を呟きながら頭を抱えていた、その時である。
傍らでじっとしていた陶水が、音もなく動いた。
彼は朱袷や開犀が休んでいるのを尻目に、一頭の鹿の革を取り出した。彼は火鉢を持ってくると、鹿革を小鍋に入れ、蜜蝋と不乾性油である椿油(カメリア油)を混ぜた特殊な液体で煮込み始めた。
「陶水、何をしている?」
開犀が怪訝そうに尋ねるが、陶水は答えない。
彼は十分に脂を吸い、弾力と防水性を得た鹿革を、押し子の先端に均一に巻き付けていった。
指先の動きは、繊細そのものだ。ミリ単位の凹凸を指腹の感覚だけで察知し、竹筒の内径に完璧に適合するように微調整を加えていく。
「どうぞ」
陶水が初めて声を出した。
どこか頑なな外見に反し、意外と柔らかな声だった。
試作機を凜華に差し出す。
凜華が半信半疑で押し子を引くと――シュッというかすかな負圧の音と共に、水が吸い上げられた。
親指で力を込めると、今度は水が鋭い糸のように先端から噴き出した。
隙間からの漏れは、一滴たりともない。
「真空状態だ。なめらかな摺動、完璧な気密性。これよ、これこそが私が求めていた注射器の心臓部だわ!」
凜華は陶水の魔法のような指先をまじまじと見た。
「あなたはやっぱり天才ね。この蜜蝋と革の含浸処理、摩擦係数までも計算に入れているんでしょう?」
陶水は、小さく「……いえ」とだけ答えた。
その夜。
長楽殿にやってきた景雲は、寝椅子に横たわって、凜華の報告を聞いていた。
「陛下! 聞いて。今日はすごかったんだから。陶水さんの指が蜜蝋を……」
頬を紅潮させて生き生きと語る凜華。
彼女の口から出る陶水という単語は相変わらず面白くないが、景雲は怒ったりはしなかった。
もうこれは好きなだけ語らせておくしかない。
自分に見せる顔よりも、怪しげな竹筒が完成した時の方がよほど輝いた顔をするのだろうと思いつつ、すでに諦めている。
景雲は、長椅子に飛び乗ってきた奶団子を抱いて撫でつつ、「うむ」「そうか」と適当な相槌を打った。
本当は自分だけを見てほしい。この国で最も偉大な男は自分なのだと、その賢い頭に刻み込んでやりたい。
しかし、目の前で「これで救急医療のプロトコルが書き換わるわ」と拳を握る凜華を見ていると、口にするのは野暮に思える。……というか、滑稽すぎる気がしてならない。
「陛下、聞いてる? さっきからうわの空だよ」
凜華が不満そうに唇を尖らせる。
「聞いている。陶水がよくわからん革を煮込んだという話だろう。よかったな」
景雲はあからさまにため息をついた。
「まあよい。お前がそうして楽しげに語っているならばな。ただし、あの男と二人きりになることは許さんぞ」
「わかってるって」
凜華は呆れながらも笑った。
シリンダーの気密性という第一の関門を、陶水の「蜜蝋と鹿革」という解決策で突破した凜華であったが、次なる壁はさらに高かった。
「……針よ。問題は針」
彩煥殿の作業机の上で、凜華はしきりに唸った。
冶金技術で銀や銅を細く引き延ばしても、中を空洞にするとなると強度が保てず、すぐにひしゃげてしまう。
さりとて、中空を保てる太い針では血管に刺さらない。
もし無理矢理患者に刺せば、もはや医療ではなく「串刺しの刑」である。患者は薬効を得る前にショック死してしまうだろう。
凜華と朱家の面々は、外廷の植物園から後宮の隅々に至るまで、鋭利な「中空構造」を探し求めた。
サボテンの棘では脆すぎ、大型昆虫の産卵管は有機的すぎて防腐処理に耐えられない。宮城内にあるものでは賄えそうになかった。
数日後、朱袷が家宝の重箱を恭しく捧げ持って彩煥殿にやってきた。
「凜華殿。これはどうでしょうかな。我が朱家が南方の交易商人から譲り受け、秘蔵していた『虺濃刺虺』の牙でございます。針というよりは、毒の研究のために買い取ったものらしいのですが」
重箱の中に鎮座していたのは、白く緩やかな弧を描く長さ三センチほどの鋭い牙であった。
「毒蛇の牙か……!」
初めて見る、この世界特有の毒蛇に凜華は目を見張った。
「虺濃刺虺は毒蛇の中でももっとも小さく、細い牙を持っています。この牙なら血管にも刺さりそうな気がします」
「うん、これならいけるかも!」
ヘビの牙、特に細く小さな毒蛇のそれは、獲物の体内に毒液を効率よく注入するために進化を遂げた天然の「精密注射針」である。内部には導管が通り、その材質は骨よりも硬い。
「中空の管牙構造……自然界の進化が導き出した最適解だわ。陶水さん、これを台座に固定して先端をさらに研げますか?」
「そんな細いものを研ぐなど、人の業では無理だ」
開犀が横から顔を出し、鼻で笑った。
確かに、蛇の牙は先端へ行くほど細くなる。力を入れれば折れ、手を抜けば皮膚を切り裂くメスになってしまう。
陶水は何も言わず、道具箱から極細の砥石――それも、宝石を磨くための微細な粉末を練り込んだ特製の石を取り出した。
そこから、彩煥殿の空気は一気に張りつめた。
陶水は、目視すら困難な牙の先端を見つめ、指先のかすかな振動だけで研磨を始めた。
シュッシュッという、心音よりも小さな摩擦音。
彼は牙の「溝」を活かしつつ、刺入時の抵抗を最小限に抑え、細胞を押し広げるための曲面を指先の感覚だけで作り上げていく。
一刻(二時間)が過ぎた頃、ようやく陶水の手が止まった。
台座に据えられた蛇の牙は、窓から差し込む光を浴びて、神々しいまでの鋭利な光を放っていた。
それはもはや蛇の牙ではなく極細の中空の針、医療器具に昇華されていた。




