第181話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<七>
「……ッ!」
景雲はうつ伏せたまま、思わず息を呑んだ。
開犀の鍼とは全く違う。
痛覚を刺激することなく皮膚を突破した鍼は、筋肉の深層に潜む硬いしこりを正確に射抜き、ズーンとした心地よい響き(得気)を発生させた。
それは、経絡という曖昧なものではなく、凝り固まった筋膜と神経の緊張を物理的に解除していくような感覚だった。
景雲は内心唸った。これは……認めざるを得ない。
その後も、陶水は無言のまま的確に鍼を打っていった。
治療が終わった後、景雲が上体を起こすと、先ほどまでの首の重さが嘘のように消えていた。
「これは……うむ」
景雲は感嘆の声を漏らした。
凜華が絶賛するのも頷ける。この男の腕は本物だ。
「いかがでございましょう、陛下。宸眷の薬師殿が凄腕であろうとも、鍼灸の手技は一朝一夕で身につくものではございません。経験則が違いますゆえ。先帝陛下の類まれなご長寿も、弊家の治療を受けておられたからこそです。陛下はお若いですが、今から始められるのが健康を保つ秘訣かと」
朱袷が、自分の手柄のように得意満面で胸を張る。
(……確かに腕はいいが、凜華の関心がこの男に向くのはどうにも腹立たしいな)
景雲は、当初は適当な難癖をつけて陶水を遠ざけようかとも考えた。
が、凜華が熱心に訴えていた姿を思い出す。
彼女は純粋に、この男が持つ技術を医療に役立てたいと考えている……と信じたい。
ここで意地を張って有能な技術を捨てるのは、皇帝として度量が狭すぎる。
「朱袷。お前たちの……特に陶水の技は見事だ」
景雲は起き上がると、衣を羽織りながら素直に褒めた。
「実は、凜華がそこの陶水に会いたがっている」
「陶水にですか?」
朱袷が素っ頓狂な声をあげる。
「新たな医療機器の開発のため、鍼の技術について話を聞きたいそうだ。近いうちに、時間を取って向かうように」
「おおっ! 宸眷の薬師殿が朱家の技術に興味を?」
皇帝からの特別な引き立てに、朱袷は天にも昇る心地である。なぜ陶水なのかはわからないが、凜華と皇帝に気に入られたことは確かだった。
「ありがたき幸せ! それでは早速、弟子どもを引き連れて、凜華殿のもとへご挨拶に伺います」
ほくほく顔で拝命する朱袷だったが、景雲の目は一切笑っていなかった。
「……ただし」
景雲は、低くドスの効いた声で条件を出した。
「会合の場所は麗妃の宮である彩煥殿とする。そこへ凜華を呼ぶゆえ、麗妃の差配で会うように。李元も立ち会わせる」
それはすなわち、人の多い場所で、麗妃という監視役と皇帝の目となる李元を置き、密室状態を作らせないという徹底した安全策であった。
景雲は、胡乱な目で開犀を睨みつけた。
「お前は昨日、後宮で凜華に妙な口を利いたそうだな」
これは凜華や麗妃が景雲に訴えたわけではなく、彩煥殿で噂になっていたのを、絃楠が小耳に挟んで報告したのだった。
開犀は突然の詰問に飛びあがった。
「い、いいえ! そんな滅相もない。ただご挨拶をしただけでして」
「次に凜華と会う時、お前は一言も口を利くな。黙って立っていよ。もし、少しでも不埒な真似や無礼な振る舞いを見せたら……」
景雲は、氷のような笑みを浮かべた。
「その時は、朱家一門、九族もろとも根絶やしにするからそのつもりでいろ」
「ひぃぃぃぃッ!」
開犀は震え上がった。
朱袷は状況が飲み込めず真っ青になっている。
「へ、陛下。開犀が何か無礼を?」
朱袷の問いを景雲は黙殺した。
一方、当の陶水は、相変わらず無表情のまま床の模様を見つめている。食えない男だと景雲は思った。
数日後の彩煥殿。
普段は優雅な香が焚かれ、女官たちの華やかな笑い声が響くこの場所は、今や異様な熱気に包まれた開発室の様相を呈していた。
広い居間の中央の円卓を囲むのは、景雲の許しを得て意気揚々とやってきた凜華である。
一体何があったのか、急に「朱家の連中と会ってもいいぞ」と言われたのには面食らったが、景雲の気が変わらないうちにと、準備を整えてやってきたのである。
目の前にいるのは、景雲の「根絶やしにするぞ」という脅しを受け、神妙な顔で並ぶ朱家の面々――当主の朱袷、置物のように黙り込む開犀、そして陶水だった。
その背後には、景雲の命を受けた李元が目を光らせ、少し離れたところから麗妃が興味津々で見守っている。侍女や下働きの女たちも詰めかけていた。
麗妃としては、客人が来て宮が華やぐのは願ってもないことだった。
退屈な後宮暮らしの一服の清涼剤、皇帝の命が来た時は、自分の存在意義が認められたようで喜んだくらいである。
早速、侍女たちにもてなしを命じ、茶や菓子を用意させている。
「さて、皆さん! お集まりいただいたのは他でもありません。私の構想する新時代の医療器具、注射器に関するご相談、そして共同開発をお願いしたいのです」
凜華は高らかに言うと、卓上に一枚の木板を置いた。
そこには、現代で「注射器」と呼ばれるものの原型が、緻密な縮尺で描かれていた。
「注射器……? 見たところ、ただの筒と棒にしか見えませんが?」
朱袷が狐につままれたような顔で尋ねる。
凜華は待ってましたとばかりに熱弁を振るい始めた。
「いいえ、これは画期的な治療器具です。これまでは、薬は飲むか塗るかしかなかった。しかし、この器具は『血の道』――すなわち血管や皮下組織へ、直接薬液を投じるためのもの。これが実現すれば、経口投与では間に合わないショック状態や、死の淵にある命を救うことができます」
薬を口から飲んだ場合、胃腸で吸収され、肝臓を通り、全身に巡るまでに通常三十分〜一時間程度かかってしまう。しかし、血管に直接入れる「静脈内注射」なら数秒〜数十秒で全身に回る。
凜華の説明とその言葉の重みを朱袷も理解した。表情が薬師としての色を帯びる。
「直接、血の道へ……。それは確かにすごいことですが。しかし、凜華殿。これを開発するにあたり、当家が協力する利点はどこにあるのでしょうか。これは、下手をすれば命を縮める危険もある代物。おいそれと手を出すのは……」
同時に、朱袷は老獪な笑みを浮かべた。
とんでもないことを言い出す娘だとは思ったが、図面を見る限り、作れないものでもなさそうである。
何よりこの技術には「金脈」としての匂いがする。
朱袷は薬師としてはたいした腕ではなかったが、商人顔負けの商才があった。治療は弟子に任せるか補わせておけばいい。彼は頭の中で、素早くそろばんを弾き始めた。
「当家が開発に協力する代わり、一つ条件がございます。材料を含めて注射器とやらの開発にかかる費用は、当家がすべて負担いたしましょう。ただし、完成後の注射器の製造・販売、および正式な使用権は、朱家が独占させていただく。これでいかがかな?」
李元が「それは早急では……」と口を挟もうとしたが、凜華は制した。
「承諾します。私にとって重要なのは、この技術がこの世に実現し、救える命が増えることだから。権利の所在は朱家に一任します。ただし、契約内容は陛下や専門家にも見てもらうので」
凜華は、契約云々は書面で起こしてもらい、李元たちに相談するつもりでいた。
特許権(という考えがこの国にあるのかどうかはわからないが)に関しては、専門家にしっかり見てもらうことにする。役所には、法律上の権利や契約に関して詳しい者がいるはずである。
皇帝が仲介している以上、朱家も凜華が著しく不利になる契約は提示できない。
景雲は、注射器に関してはスポンサーではないが、まさに皇帝さまさまだった。彼の名を出せば、女一人と侮られたり、搾取されたりすることはない。
封建社会の頑迷固陋な価値観の持ち主であり、理不尽な説教をされたりもしたが、頼りになる人だと凜華は思った。
朱袷も、競合である他の医家に並び立ち、彼らを圧倒する新たな切り札を持ちたかった。そのためならばと奮起した。
「よろしい。では、後ほど正式な契約を結びましょう」
今のところは口約束だが、李元や麗妃といった証人たちもいる。
「じゃ、決まり!」
凜華はポンと手を打った。
手探りではあるが、注射器の開発が始まった。
凜華と朱家の職人魂に、火がついた瞬間でもあった。




