第180話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<六>
翌朝、長楽殿の控室では、凜華がげっそりとして卓の前に座っていた。
結局あの後、景雲の説教は続き、凜華は「皇帝の侍妾たるものの自覚」から始まり、「誤解を招く不適切な発言の禁止」「男女の機微に関する著しい欠如」などについて、延々と説教を喰らい続けたのである。
奶団子は途中で爆睡し、景雲もいい加減疲れたのかふて腐れて寝てしまった。
純粋な医療機器開発の情熱を、卑猥な文脈に曲解され、あまつさえ数時間に渡って絞られたのだから、凜華の精神的疲労は限界に達していた。
「あ~頭痛い。自律神経が乱れまくってる。早く帰って寝よ……」
ぼやきながらも、凜華は手元の茶をすすった。
昨夜、景雲に出した出がらしである。
「今でさえああなんだから、歳をとったらとんでもない説教じいさんになるね。痴呆でも入った日には、もう悲惨オブ悲惨。一日説教するはず。老害よ、老害皇帝」
向かいでお茶を飲んでいる李元は、昨晩のあの修羅場に巻き込まれたというのに、ケロリとした顔で卓上の菓子をつまんでいる。
「そう嘆かれますな。陛下は元からああいうお方ですよ」
李元はこともなげに言った。
「むしろ、凜華殿がいらっしゃってからは、随分丸くなられた方です。昨晩は久々に荒ぶるお姿を拝見して、少々肝が冷えましたが」
「丸くなったってあれで……? 嘘でしょ」
凜華は信じられないという顔で李元を見た。
「むしろ凜華殿に対しては、陛下は特別に甘く、お優しいですよ」
「この世界の優しさの基準がわからない……」
凜華は茫然としながら言った。
大体、景雲とはどうにもなっていないのに、ふしだらだの不貞だのと怒られるのにも納得がいかない。
「理不尽! めっちゃ理不尽!」
憤慨していると、李元はまあまあと言いながら軽食や菓子の入った皿を差し出してくる。
本来は景雲の朝食だったのだが、本人が食べずに不機嫌なまま外廷へ行ってしまったため、手つかずの残り物を食べている。
「陛下は元から気難しい方です。後宮の妃嬪たちが、陛下を畏怖しているのも無理からぬことですよ。今回のことも、麗妃さまが巻き込まれなくてよかったと思わなくては」
「それは確かにね」
温め直された饅頭や汁物を食べつつ、凜華は深々とため息をついた。
麗妃が景雲を恐れている理由が、やっとわかったような気がする。
生化学の実験なら、条件を整えれば必ず同じ結果が出るが、人の感情は一言間違えただけでも大爆発を起こしてしまう。相手が皇帝ならなおさら厄介だ。
「何はともあれ、私の『注射器開発プロジェクト』は、スポンサーによって暗礁に乗り上げたってことか」
凜華は力尽きたように机に突っ伏した。
「あーあ、陶水さんの素晴らしい技術を間近で見られるチャンスだったのに……」
一方、その日の午後。
外廷の清心殿においては、昨晩荒れた張本人である景雲が、玉座に座って腕を組んでいた。
廷臣たちの上奏を聞きつつも、凜華が熱を上げて語っていた陶水という男のことが頭にこびりついて離れない。
(……凜華があれほどまでに才があるという男。一体どれほどの腕を持っているというのだ)
嫉妬の炎は鎮火したものの、今度は陶水が気になって仕方ない。これは自分の目で確かめないことには気が済まない。
景雲はいったん奥に引っ込むと休憩と称し、朱家の当主と例の弟子たちを清心殿に呼ぶよう命じた。
皇帝の指名とあって、太医であり朱家の当主でもある朱袷は、一番弟子の開犀と陶水を引き連れて飛んできた。
「ははぁーッ! この度はお召し出しいただき一門の誉れに存じまする」
皇帝から直接の指名を受けるなど滅多にない。
目に見える治療効果が薄いせいで他の医家から一段下に見られがちな朱家にとって、願ってもないチャンスだった。
次長の周関からは、「朱家は臨床よりも金儲けの方に熱心なご様子。医家ではなく商家を名乗られたらいかがですかな」などと嫌味を言われ、悔しい思いをしてきたのだ。
ここぞとばかりに売り込んで気に入られ、一つでも太医の枠をもぎ取りたい。朱袷の顔は、脂ぎった野心でテカテカに光っていた。
朱家の勢いに若干引きつつも、景雲は鷹揚に言った。
「ここのところ朝議が立て込んでいてな。肩から首にかけて鉛のように重いのだ。一つ、お前たちの自慢の鍼でほぐしてもらおうか」
景雲はそう言うと、上半身の衣を脱ぎ捨てて裸になり、用意させた寝台にうつ伏せに横たわった。
鍼を受けるのは初めてで緊張する。
だが、周囲には大勢の人間がいるし、朱家は必死に取り入りに来ている。ここでおかしな真似をすることはないだろう。
「はっ! では、我が朱家が誇る一番弟子、開犀に打たせましょう。開犀よ、粗相なきよう」
朱袷に促され、開犀が出てくる。
彼は昨日、後宮で死ぬほど肝を冷やしたばかりだが、持ち前の軽薄さで立ち直っていた。
「陛下、どうかご安心ください。私の手にかかれば、どんな凝りも春の雪の如く溶け去ります。ああ、陛下のお背中はなんと見事な筋肉……」
ペラペラと世辞を並べ立てながら、開犀は景雲の肩や背中のツボに鍼を打っていく。
だが、神経や血管を傷つけるのを恐れて浅くしか刺さない彼の技では、凝り固まった景雲の僧帽筋や肩甲挙筋の深部には微塵も届かなかった。
まるで効果を感じられず、景雲は苛立った。
(なんだ、この鬱陶しい男は。口ばかり動かして、肝心の鍼は蚊が止まった程度の刺激ではないか)
景雲は不快そうに眉をひそめた。じろりと開犀を睨みつけると、彼の背後に控える男の方を見た。
陶水は少し離れた場所から施術の様子を見ている。
終始無表情で、何を考えているのかわからなかった。
「おい。そこのお前、代われ」
景雲は、おもむろに陶水を指差した。
「へ、陛下。この者は助手でして、玉体に触れるなど恐れ多い……」
慌てて止めに入る朱袷を、景雲は冷ややかな声で一蹴した。
「余が代われと言っているのだ。それとも、命令が聞けぬと?」
「い、いえ。とんでもございません。では陶水。交代せよ」
押し出されるようにして、陶水が進み出た。
開犀が憮然とした顔で引き下がる。
陶水は無言のまま景雲の傍に跪くと、新しい鍼を手に取った。
そして――スッと。
一切の無駄な動作なく、景雲の首の付け根(風池)と、肩甲骨の内側(膏肓)に鍼を打った。




