第179話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<五>
「そんなこと許すわけがなかろう!」
景雲が卓に手を叩きつける。
彼の剣幕に驚いたのか、柔らかいぼろ布を敷き詰めたかごの中に寝そべっていた奶団子が「フギャッ!」と鳴いて、家具の影へ逃げてゆく。太い尻尾をはみ出させたまま、ぶるぶる震えている。
景雲は怒りのままに、部屋の外に向かって手を叩いた。
のみならず、大声で呼んだ。
「李元」
外に控えていた李元が、慌ててすっ飛んできた。
「へ、陛下。いかがなされましたか」
「いますぐ勅命を出せ」
景雲の顔は真っ赤になっている。
彼は立ち上がるなり叫んだ。
「朱家の者どもは、今後一切、後宮への出入りを禁ずる。今、後宮にいる奴らも衛兵に命じて即刻追い出せ!」
「な、ななな……」
李元は目をひん剥いてひっくり返りそうになった。
「お、お待ちください陛下。突然何を仰られるのですか。薬師の配置は五大医家の持ち回りで厳格に定められております。もし朱家だけを後宮から締め出せば、他の四家の負担が跳ね上がりますし……第一、太医の当主がなんというか」
元々、五大医家は水面下で何百年も権力闘争を繰り返してきた。血を血で洗う暗闘や診療拒否、ストライキその他で、皇族を含む患者たちが迷惑をこうむってきたのだ。
建前上は、五つの医家を平等に扱うことでようやく落ち着いたのに、皇帝自らが新たな火種を投入するとは。
これはなんとしても止めなくてはならない。
李元は必死に言った。
「そもそも急病人が出た場合は医家や薬師を指定することはできず、薬師房に当直している者が駆けつける規定になっております。朱家のみを排除などしたらどうなるか。無茶を仰らないでください」
李元の常識的かつ必死の抗弁も、嫉妬に狂った男の耳には入らない。
「そんなこと知るか。とにかく、陶水という男だけは二度と後宮に入れるな」
「え――っ! 彼は何もしてないでしょ」
たまらず凜華も詰め寄る。
男を庇う姿を見て、景雲はさらに頭に血が上った。
「凜華がその男と出会ったのは麗妃の宮であったな。今すぐ麗妃も呼んでまいれ!」
「麗妃さまを、ですか?」
これには李元も困惑した。
「そうだ。私の許しもなく、凜華をどこの馬の骨とも知れぬ男に会わせるとは。麗妃め、まさか密会の手引きをしたのではあるまいな。今すぐここに連れてこい!」
「ち、違うってば。あなたは何か誤解をしているよ」
事態の異常さにようやく気づいた凜華は、景雲の腕にしがみついた。
「麗妃さんは関係ないから。急患で呼ばれて行ったけどそれは手違いで。私が勝手に治療を見学しただけ。彼女を呼ぶのは勘弁して。完全にとばっちりだから!」
もしこんな夜更けに麗妃が召喚され、身に覚えのない「密会の手引き」という濡れ衣で詰問されれば、どんな悪評が広まるかわからない。麗妃の立場が危うくなってしまう。
「うるさい。お前はあの男に夜通し抱かれたいと申したではないか」
「そんなこと一言も言ってないし! そういう意味で会いたいんじゃないってば。私は『中空の細い金属管』の加工方法や、ミリ単位で狙った深さへ到達させる力学的なアプローチについて学術的な意見を交わしたいだけで……!」
「なんだそれは。言い訳など聞きたくない。李元、早く麗妃を呼べ!」
「陛下、何とぞ落ち着いてくださいませ。私の目にも陛下は誤解されているように見受けられます」
凜華と李元の二人がかりで景雲の腰にしがみつく。
「離せ!」
「離さないよ。ああもう、わかったよ。不安ならあなたも同席すればいい。なんなら李元さんも一緒に。衆目環視の中で話す。それなら文句ないでしょ!」
凜華がやけくそ気味に叫ぶと、景雲の動きがピタリと止まった。
「……私が同席するだと?」
「そうだよ。陛下はお茶でも飲みながら、私たちの会話を聞いていればいいよ。私はただ注射器を作れたらいいなと思って」
「注射器?」
「そう、注射器!」
凜華の頭の中には、壮大な計画があった。
経口投与や皮膚からの吸収ではどうしても薬効の発現に時間がかかり、胃酸で成分が分解されてしまう薬物も多い。
もし、血管内や皮下組織に直接薬液を送り込む「注射器」に似た器具を作ることができれば、急性のショック症状や感染症に対して劇的な治療効果を上げることができる。
この世界の技術でどこまで再現できるかは未知数だが、注射筒の部分は真鍮の削り出しか、あるいは厚手のガラス管を職人に特注し、密閉用のピストンには豚の膀胱か蝋引きの革を使えばいけるのではないか。
しかし、最大の問題は「針」である。
人間の皮膚を貫通し、なおかつ内部に薬液を通すほどの極細の空洞を持つ金属管。
そんなオーパーツのようなものをこの世界の冶金技術で作るには、針という針を知り尽くし、職人へミリ単位の指示が出せるスペシャリストの知見が必要だった。
そして今日、麗妃の宮で凄まじい精度で針を扱う陶水の手技を見た瞬間、凜華は確信したのだ。
彼と朱家ならば、自分が求める針についても知見があるはずだと。
凜華は熱弁を振るう。
「陛下も、医療機器開発の討論を見学すればいいよ。こんなの密会でもなんでもない」
「……絶対に手は触れさせぬぞ」
「触らないし、触らせないよ。触るのは医療器具だけ」
「見つめ合うのも禁止だ」
「どんだけ! 目が合うことくらいはあるよ!」
「……」
景雲はじっと疑い深げに凜華を睨んだ。
「本当に医学的な話なのだな?」
「そうだよ。彼の指先の感覚と技術があれば、私が思い描く新しい医療器具が作れるかもしれない。だから針の深さや角度、金属の強度について相談したいだけ。なんなら朱家の人たちが一緒でもいいから」
そこまで言われて、景雲もようやく頭が冷え始める。
「では、麗妃の召し出しは免ずる」
「……よかった」
ゼエゼエと荒い息を吐きながら、凜華と李元はなんとか最高権力者の暴走を食い止めることに成功した。
景雲は鼻を鳴らすと、長椅子にドカッと座り直し、腕を組んだ。
景雲が落ち着いたのを見たのか、家具の影から奶団子がそろそろと出てくる。
猫も誰が主人であり、一番力を持っているかは理解しているようで、景雲の足もとまでやってくるとちょこんとうずくまった。
立ち上がりかけた凜華に、膝の上で猫を揉むマフィアのボス……もとい、仏頂面のマヌルネコを従えた皇帝は傲岸に言い放った。
「待て。まだ話は終わってない。そこに座れ」
「も~今度はなに?」
胡乱気に問い返す凜華に、景雲は当然のように言った。
「一度きっちり言っておかねばならないと思っていた。お前は後宮の女としての心構えがなっていない。ここの教育を受けてないゆえ仕方のない面もあるが、今日という今日は我慢ならん。私が直々に心構えを説く」
「えっ、ええええ~!」
まさかの説教タイムの気配に、凜華はげんなりした。
背後に立った李元に促され、しぶしぶ景雲の前に正座する。
景雲は神妙にしている猫を満足げに眺め下ろした。
「見よ。奶団子もお前の不貞、節操のなさに呆れて怒っているではないか」
「この子は元からこういう顔でしょ!」
凜華のツッコミにも聞く耳を持たず、景雲は滔々と説教を始めた。




