第178話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<四>
「ひぃっ……!」
開犀の膝が、ガクガクと音を立てて震え出した。
彼の額からは、先ほどの得意絶頂が嘘のように、滝のような冷や汗が吹き出している。
「も、申し訳ございません! どうか平にご容赦を。な、何卒ご内密にぃぃっ!」
美丈夫の面影など微塵もなく、床に額を擦りつけて平謝りする開犀。彼はパニックのあまり、背後で静かに控えていた陶水の襟首を乱暴に掴むと、
「ゆ、行くぞ! 失礼いたしました――ッ!」
と、文字通り転がるようにして麗妃の宮から逃げ去っていった。
当の凜華はといえば、開犀の甘い口説き文句など、最初から一文字たりとも耳に入っていなかった。
「陶水さんは、去り際まで足運びの重心が一切ブレない。完全に下腿三頭筋の張力をコントロールしている……」
彼女の視線は開犀ではなく、襟首を掴まれて引き摺られながらも、一切の表情を変えることなく去っていく陶水の背中に熱っぽく注がれていたのである。
その夜。
長楽殿に、仕事を終えた景雲がやってきた。
彼は長椅子にどっかりと腰を下ろすと、疲れたように首の骨をポキポキと鳴らした。
やたらに長い朝議や、老臣たちの説教じみた上奏から解放され、凜華と過ごす甘……くはないが、心安らぐひと時。
彼女が淹れてくれた香木と陳皮をブレンドした薬膳茶の香りが、疲れた脳を優しく解きほぐしていく。
「……うむ、やはりお前の淹れる茶は格別だな。今日は一日中、戸部の連中が税の取り立てについてやかましくてな。疲れた……」
景雲は茶器を置くと、凜華を手招きした。
「首と肩がガチガチに凝ってしまった。凜華、揉んでくれ」
「はーい」
凜華は、せっせと肩を揉みつつも目を輝かせた。
「陛下。朱家について教えて。あそこは鍼灸や按摩を専門としていると聞いたけど、具体的な技術体系や宮中での扱いはどうなっているの?」
「……ん? なんだ藪から棒に」
景雲は目を丸くしたが、凜華の突飛な好奇心はいつものことである。彼は知っていることを語り始めた。
「朱家は五大医家の中でも、最も富裕な一門だな。なにせ、鍼灸や按摩は肩凝りや腰痛、疲労回復など、貴族や高官たちが日常的に抱える悩みに直結している。ゆえに需要が高く、裕福な顧客を多数抱えている」
「病気になってから呼ばれるわけでもないし。気に入られたら継続してお客になってくれるもんね。おまけに独占」
現代でも鍼灸マッサージや整体業が廃れないのと同じで、この国でも需要は高いようである。
「私も時折、彼らを呼んで按摩を受けるが、揉捏法や叩打法で筋肉の凝りをほぐされると気持ちがよい」
「鍼灸は受けないの?」
「ああ。先帝は朱家を気に入っていて、健康法として定期的に施術を受けていたようだが……。私は気が進まなくてな」
極細の鍼は毒を塗れば凶器になり得るし、これを血管に打ち込まれでもしたらまず助からない。灸は火を使う。
命を狙われている景雲にとっては、どちらもリスクに思えた。先日も、官舎で焼き殺されそうになったばかりである。
嫌なことは思い出さないようにしつつ、景雲は尋ねた。
「お前は鍼灸もできるのか?」
凜華の施術なら受けてもいいかと考えたが、凜華はあっさりと言った。
「ううん、全然できない。ツボの位置がわかるだけ」
「そうか」
「知識があるのと、実技ができるのは全然違うからね」
凜華は少し残念そうに言った。
景雲は、気持ちよさそうに目を細めながら続けた。
「だが一方で、彼らは宮中において少し複雑な立ち位置かもな。鍼灸按摩は痛みを和らげたり、体調を整えたりすることは得意なようだが、解毒や病などを目に見える形で劇的に治すという点では、他の医家より劣って見られがちだ。そのため、朱家から太医になる者も少ない。朱家の当主は、一門の箔をつけるためにも、もっと太医を出したいと考えているだろう」
「なるほど、富はあるが権威が足りない、というわけね」
凜華は深く頷いた。
「だからこそ、あの開犀とかいうチャラ男を一番弟子として持ち上げ、パフォーマンスで名声を稼ごうとしているのかな。でも、あれはただの客寄せパンダね。本当の技術の粋は彼にある」
「……ん? 彼とはなんだ?」
景雲の眉が、ピクリと動いた。
「陶水さん!」
凜華は、待ってましたとばかりに景雲の前に回ると、熱弁を振るい始めた。
「今日、麗妃様の宮で彼の手技を見たの。あれは凄まじかった。表面上は何もしないふりをしながら、ミリ単位の軌道修正と物理的圧力だけで、狂った自律神経を強制的に再起動させたのよ。解剖学的な反射弓のメカニズムを、理解した上で実践している。私はあれほど修練を積んだ手を見たことがない。彼のあの指のタコ! あれはどう見ても……」
「……凜華」
景雲の低く冷たい声が、長楽殿の空気を震わせた。
凜華がハッとして口を噤むと、目の前の皇帝は、先ほどまでの穏やかな表情を完全に消し去り、底冷えするような眼差しで彼女を見つめていた。
「お前は、さっきからやたらと特定の男……それも、今日たまたま後宮で出会ったという陶水とかいう薬師のことばかり熱心に語るな」
景雲の声は平坦であったが、明確な不機嫌がマグマのように渦巻いていた。
「お前は、他の男の『指』だの『手技』だのを褒めそやす。……それは、私への当てつけか? それとも、本気でその男に心惹かれたとでも言うつもりか?」
「え? 当てつけじゃないよ。惹かれたというか、純粋な医学的興味であって……まあ、会いたいっちゃ会いたいけど」
「……あ、会いたいだと?」
景雲の端正な顔が強張った。
この世界において、男女が「会いたい」と口にした場合、肉体関係を持ちたいという意味に取られてしまうことが多かった。破壊力抜群のとんでもない一言である。
凜華は景雲の顔色などお構いなしに、決定的な一撃を放った。
「だから今度、朱家の陶水さんを後宮に呼んでほしい。どうしても彼と語り明かしたくて!」
「……は?」
景雲の目には、凜華が「今日出会ったばかりの男に一目惚れし、熱烈な求愛をしている」ようにしか見えなかった。
皇帝である己の目の前で、しかもこの長楽殿において、よりにもよって他の男の名前をうわ言のように連呼し、あまつさえ「二人きりで語り明かしたい(=夜を共にして深くまで交わりたいという強烈な隠語に聞こえる)」などと、臆面もなく口にするとは。
「……凜華」
景雲の声は、急に熱を帯びた。
彼の脳内で、危険を知らせる警鐘がガンガンと鳴り響く。
「お、お前というやつは。なんというふしだらな女なのだ。私というものがありながら!」
景雲は、特に邪知暴虐の王というわけではなかったが、激怒した。




