第177話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<三>
凜華は、そっと陶水の傍に歩み寄った。彼は木箱の中に鍼や薬瓶を几帳面に並べ直している。
凜華は、彼の真横に立つと、周囲の歓声に紛れるように小さな声で囁いた。
「……驚いた」
陶水の手がピタリと止まる。
「後頭部の深部にある知覚神経を捉えて、脳幹への自律神経反射を引き起こしたんでしょう。あの角度と深度で迷走神経を強制起動させるなんて……あなたはすごいのね」
陶水は、顔を上げなかった。
伏せられた長い睫毛の下で、水色の瞳が一瞬だけ、まるで水面に石を投げ込まれたかのようにかすかに揺らいだのを、凜華は見逃さなかった。
(……図星かな)
凜華は期待したが、陶水は何事もなかったかのようにすぐに無表情へと戻り、薬箱の蓋をパチンと閉めた。彼は凜華の賞賛を無視する道を選んだのである。
「いやはや、私の鍼にかかれば、この程度の気逆など造作もないことです」
陶水が沈黙を守る一方、開犀の独演会は続いていた。
麗妃から直々にねぎらいの言葉をかけられ、彼はすっかり有頂天である。
「開犀殿は本当にお見事でございますね。お隣にいらっしゃる方も、朱家の薬師さまなのでしょう?」
一人の女官が陶水を見て尋ねた。
すると開犀は、ひどく小馬鹿にしたような鼻で笑った。
「ああ、彼ですか。陶水は私の同期で、同じ時期に入門した男なのですが。いかんせん不器用な性分で、一向に鍼の筋が良くならず、ツボの理も覚えられぬ無能でして。見かねた私が、こうして助手として使ってやっているのです」
「まあ……それは大変」
クスクスと女官たちから嘲笑が漏れる。調子に乗った開犀はさらに言葉を重ねた。
「彼のような鈍い男に、この黄金の鍼は一生扱えませんよ。鍼灸の道とは、才能を持つ者だけが歩める至高の道なのです」
なんという驕慢、なんという滑稽。
凜華は、開犀のあまりの無知と自己顕示欲の強さに呆れた。自分が誰の手のひらの上で踊らされていたかも知らずに、よくもまあここまで自信過剰になれるものだ。
当の陶水は、屈辱的な言葉を投げつけられても、反論するどころか眉一つ動かさなかった。
床の模様をじっと見つめたまま、気配を殺している。
自分が人間ではなく、ただの背景であると主張しているかのようだった。
凜華の胸に疑問が渦巻く。
……どうして彼は開犀の影に甘んじているのか。
凜華自身は、薬理学や生化学には精通しているが、経穴の位置は知識として知っていて押したりもするものの、鍼灸の専門的な技術はまったくない。
だからこそ、陶水の持つ物理的かつ直接的な人体のコントロール技術に、猛烈な好奇心を掻き立てられた。
なんとかしてもっと話せないだろうかと彼女は思った。
五大医家は、それぞれが持つ秘伝の技術や理論を決して外部には明かさない。それは一種のブラックボックスであり、門外不出すら生ぬるい血の掟で守られたクローズド・システムである。
凜華もそのことは重々承知していた。もし他家の者がその秘術を盗み出そうとすれば、刃傷沙汰になってもおかしくはない。
しかも、陶水は圧倒的な実力と、それを隠し通すだけの自制心を持っている。
「おや……こんなところに一輪の花が」
声がした方へ凜華が目を向けると、そこに立っていたのは開犀だった。
開犀が、胡散臭いほどに甘ったるい笑みを浮かべ、凜華の傍へやってくる。
「あなたもここの女官殿ですか? 随分と愛らしいお顔立ちだ。どうです、日々の激務で肩凝りや頭痛などはありませんか。もしお悩みならば、この開犀が直々に診てしんぜましょう」
それは、少しでも気になる女がいれば手当たり次第に声をかけるという、彼の軽薄な習性が発動した瞬間であった。
開犀は凜華の身なりを見て、ここで働く下女あたりだろうと高を括って口説きにかかったのである。
しかも、彼は凜華が持っている見慣れない意匠の薬箱をちらりと見、鼻を鳴らした。
「ふむ。見慣れない道具を持っているが……さては、最近宮中に召し抱えられたという流れ者の『湯薬師』ですね?」
「ええ、まあ」凜華はぞんざいに答えた。
「なんと気の毒に。草根木皮を煮詰めるだけの時代遅れの薬師とは。湯液など気休めにすぎない。人体を直接治癒へ導く鍼灸こそが至高の医術なのだと、この際、私の技術であなたに直接教えて差し上げましょう。指導料は、あなたの笑顔で結構ですよ」
下品な口を叩き、あろうことか凜華の肩へ気安く手を伸ばそうとする開犀。
医術を愚弄するだけでなく、触ろうとする卑しい手つきに周囲の空気が凍りついた。
「無礼者ッ!」
開犀の手が触れるより早く、傍らに控えていた女官が、甲高い声を張り上げた。
「なんと恐れ多いことを。このお方をどなたと心得るか。 宸眷の薬師殿、皇帝陛下の御寵愛を一身に集められる凜華さまであるぞ!」
「礼節すら存じ上げぬとは……朱家の教育はどうなっているのですか」
「……は?」
開犀の甘い顔が、瞬時に凍りついた。
「こ、皇帝陛下の……ご、御寵愛第一?」
サーッと、開犀の顔面から急速に血の気が引いていく。
彼の脳裏に、凄まじい速度で最悪のシナリオが展開された。
ここは後宮。皇帝以外の男の立ち入りが制限される絶対の禁域である。そこで皇帝の愛妾、それも御寵愛第一の女に、呼ばれてもいないのに身体的接触を匂わせるナンパを仕掛けたのだ。
もしこの事実が皇帝・景雲の耳に入れば八つ裂きにされるどころか、朱家一門すべてが連座で首を飛ばされかねない。
「まあ、呆れた……」
麗妃もまた、扇で口元を隠しながら冷ややかに言い放った。その瞳には、先ほどの称賛など微塵もなく、ゴミでも見るかのような蔑みが宿っている。
「少しばかり鍼の腕が立つからといって、図に乗るなんて。彼女が持っている薬箱をよく御覧なさいな。これは陛下から直接下賜されねば持てない特別な代物ですよ。それを『時代遅れ』などと貶めるなんて、陛下の御威光に泥を塗るに等しい暴言。もしあなたが不埒な真似を働けば、この宮の主である私の責任になってしまう。陛下のお怒りを思えば恐ろしいこと」




