第176話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<二>
「むっ……気の滞りが予想以上に深いようですね。ならば、もう少し強く気を流しましょう」
侍女の回復が遅いことに焦りを感じたのか、開犀の美貌が曇る。
彼は再び天柱の鍼に手を伸ばし、今度は少し深めに押し込もうと身構えた。
その時である。
それまで、開犀の背後で薬箱を整理していた陶水が不意に動いた。
彼は新しい布巾を手に取るついでのような、極めて自然な動作で、開犀の横を通り抜けざま、自らの手を開犀の右肘にこつんとぶつけた。
「失礼」
陶水がボソリと呟く。
「気をつけろグズが。手元が狂ったらどうする」
開犀は舌打ちをして陶水を睨みつけたが、すぐに気を取り直し、鍼を押し込んだ。
一部始終を見ていた凜華の目は、驚愕に見開かれた。
(……今のは偶然じゃない)
陶水が肘に触れたのは、開犀が天柱へ鍼を押し込む直前。
一見不注意に見える接触によって、開犀の腕の角度は、ほんの数ミリだけ内側――後部頸椎の危険な領域を絶妙に回避しつつ、凝り固まった最深部へ向かう軌道へ正確に修正されたのである。
浅い皮下で止まっていた黄金の鍼が、陶水のミリ単位の誘導によって、後頭下筋群の隙間を縫い、極めて安全かつ最も効果的な深度へと滑り込んだ。
その針先は、深部を走る知覚神経(大後頭神経)をピンポイントで捉え、脳幹への「体性―自律神経反射」を引き起こすスイッチを強烈に叩いた。
それにより、延髄から内臓へ伸びる副交感神経の巨大なハイウェイ「迷走神経」の制吐コマンドが瞬時に起動したのである。
それだけではない。
陶水は「申し訳ありません」と頭を下げるふりをしながら、苦しむ侍女の足元へしゃがみ込み、乱れた裳裾を直すようなそぶりを見せた。
その手元――彼の親指は、侍女の足の甲、第一中足骨と第二中足骨の接合部にある経穴「太衝」を、的確に捉えていた。
(あれは……『透熱』の圧?)
凜華は息を呑んだ。
太衝は、東洋医学において「肝の火(自律神経の異常な昂りや眩暈)」を鎮める強力なツボである。
陶水は、周囲からは足をさすっているようにしか見えない中、一点に凄まじい圧力をかけていた。
その圧力は皮膚を突き抜け、骨膜にまで達し、あたかも熱を帯びたかのような強烈な刺激となって、末梢神経から中枢へ駆け巡る。
人間の指の力だけで、しかも衣服の上から骨膜にまで到達する圧を瞬時にかけるなど尋常ではない。
陶水は力みを一切感じさせない姿勢のまま、体重の移動と指先の角度のみでそれをやってのけた。
標的となる経穴の解剖学的な三次元構造を、コンマ数ミリの狂いもなく熟知していなければ不可能な芸当だ。
彼は完全に「狙って」やっている。
延髄の自律神経中枢へとアプローチする鍼による確実な制吐作用。そして、太衝への強烈な指圧による自律神経の急激なリセット。
二つのアプローチが同時に神経系に叩き込まれた瞬間、侍女の身体に目覚ましい変化が訪れた。
容態が、嘘のような安定を見せたのである。
スイッチを切り替えたかのように、それまで荒かった呼吸は静かなものへと変わり、土気色だった頬に生気が戻り始める。もはや嘔吐反射の気配はない。
「おお……素晴らしい!」
「麗妃さま、ご覧ください。顔に血の気が戻りました!」
辺りは安堵と感嘆のどよめきに包まれた。
「ふふ、ご安心いただけたでしょうか。これぞ我が朱家が誇る黄金の鍼、そして気の流れを操る秘伝の力にございます」
開犀の態度は自信に満ちあふれ、己の力だけで治したような顔をしている。
周囲の女官たちは、華麗な手技と美貌にすっかり魅了され、うっとりと熱い視線を送っている。
「さすがは朱家の一番弟子、開犀殿」
「開犀さまの黄金の鍼が光った瞬間、悪い気がパァッと散ったようでしたわ」
割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。
次々と見当違いな称賛の声が飛び交う中、開犀は満足げに胸を張り、優雅に一礼してみせた。
扇を持った麗妃がしずしずと近寄ってくる。
侍女は麗妃を見上げ、まだ意識がぼんやりとしているのか、
「桟児姉さま……」
と二人きりの時しか呼ばない名で呼んだ。
「よかったわ」
麗妃は咎めることもなく微笑み、妹の手を優しく握った。
周囲の熱狂に対して、凜華の背筋には薄ら寒い戦慄が走っていた。
彼女の目には、得意絶頂の開犀は映っていなかった。
黄色い歓声と、自分の中の医学的見地との凄まじい温度差に眩暈すら覚える。
誰も、あの陰気な男が数秒の間に放った処置に気づいていない。当の開犀自身ですら「己の技で治した」と信じきっている。
凜華の視線は、開犀の背後で黙々と片づけをする陰気な男――陶水に釘付けになった。
陶水は、自分が事実上の治療を行ったという素振りは微塵も見せず、淡々と作業を続けている。
床の汚れを拭き取る丸まった背中は、ただの下働きの男にしか見えない。熟練の太医すら躊躇うような延髄ギリギリへの刺入軌道修正と強烈な指圧。
それらの神業を同時に放った直後だというのに、彼の呼吸は一糸の乱れもない。
(……この人、すごい)
凜華は、膝に置いた手を、知らず知らずのうちに握りしめた。
華麗なパフォーマンスと無難な治療で名声を稼ぐ一番弟子。そして、その背後で、寸分の狂いもない手技を用い、誰にも気づかれることなく結果を出す助手らしき男。
凜華は直感した。
開犀はたいしたことはない。
外面がよく、パフォーマンスが上手なだけの薬師もどきだ。
だが、陶水は神業と呼ぶべき高い技術の持ち主だ。
朱家にはとんでもない薬師がいる。




