第175話 鍼灸の五大医家と龍牙筒の開発<一>
さて、古代中国の医学書「黄帝内経」によれば、鍼には「九針」と呼ばれる九つの形状があり、それぞれ皮膚を破るもの、血を抜くもの、関節の気を巡らせるものなど、用途に合わせて使い分けられていたという。
現代のような注射器、すなわち内部が空洞になった中空の針を用いて体内に直接薬液を注入する技術は西洋医学、十九世紀を待たなければならないが、東洋医学においては古代から鍼が存在した。
金属を極限まで細く引き伸ばし、なおかつ折れないように靭性を持たせる古代の冶金技術と、それを用いて人体の「ツボ」という神経の結節点をミリ単位で狙い撃つ鍼師の技術は、もはや神技と言ってよい。
そして、この異世界にも、鍼灸を生業とする医家が存在する。
その日、後宮の彩煥殿――石マニアの麗妃が住まう宮において急病人が出た。
茶の給仕をしていた麗妃の筆頭侍女が、突如として盆を取り落とし、激しい眩暈に襲われてその場に倒れたのだ。それだけではない。彼女は顔面を蒼白にし、胃の内容物を勢いよく噴出させ始めた。
この筆頭侍女というのは、麗妃の異母妹であった。
母親の身分が低く、実家の呉家では姫の扱いにならなかったのだが、麗妃と共に入宮し、姉に仕えていた。
表向きは使用人の扱いだが、血を分けた妹である。麗妃は凜華を呼んで妹を診てもらうことにした。
「誰か薬師を呼びなさい! 壺天閣に使いを出して!」
彩煥殿からの急報を受けた凜華は、ただちに薬箱を持って現場へ急行した。
突発的な嘔吐と激しい回転性眩暈。
食中毒か、あるいは前庭神経炎やメニエール病の急性増悪か。吐き気を伴わずにいきなり勢いよく吹き出すような嘔吐の仕方は、単なる内耳の病気にしては重篤すぎる。脳内出血か、あるいは強力な神経毒の可能性も視野に入れるべきか――。
いずれにせよ、早急な制吐と水分補給、そして原因の特定が必要だ。凜華の頭の中では、すでにいくつもの生化学的な鑑別診断のフローチャートが組み上がっていた。
しかし、息を切らして麗妃の宮へ駆け込んだ凜華が目にしたのは、すでに診察を始めている見知らぬ男たちだった。
「あれ? ここは彩煥殿だよね? 間違えたかな……」
凜華は小首を傾げた。
麗妃が、凜華の姿を見て駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、凜華さん。どうも手違いがあったようで。私はあなたを呼ぶように命じたのだけど、朱家の薬師が来てしまったの」
「朱家?」
「五大医家の一つよ。鍼灸を得意とする医家らしいわ。他の医家に比べるとあまり馴染みはなくて……私も初めて見る人たちなのだけど」
「鍼灸……」
太医長の顧成の顧家、次長の周関や周但娘を擁する周家に並ぶ五大医家の一角、鍼灸と按摩を得意とする朱家。
その薬師たちがたまたま近くを通りがかり、動転した女官が壺天閣指名であることを知らずに、そのまま呼び込んでしまったのである。
「先に来たなら朱家の薬師に診せてください。私は見学させてもらうんで」
本物の古代鍼灸なんて滅多に見られない。むしろ凜華はわくわくした。
元々は後宮も五大医家の管轄であり、彼らと患者を取り合う事態は避けたい気持ちもあった。
薬師房から薬師と認められはしたが、後宮での開業はお目こぼしを貰っている。
麗妃はすまなさそうに眉尻を下げた。
「宸眷の薬師を呼んでおいて、他の薬師と鉢合わせなんて……陛下にも申し開きができない。診察代はお支払いするわ」
「いや、いいですよ」
凜華は明るく言い放ち、患者を囲む女官たちの中に入っていった。
朱家の薬師は二人いた。
一人は、一目でそれとわかる眩いばかりの美丈夫であった。名を、開犀という。絹の衣を身にまとい、自信に満ちた笑みを浮かべる彼は、パニックに陥る周囲の女官たちを甘い声で宥めすかしていた。
そしてもう一人。開犀の斜め後ろに影のように控えているのが、陶水だった。
彼は陽気な開犀とは対照的に、ひどく陰気な空気を纏っていた。
異国の血を引いているのだろうか、色素の薄い明るい茶色の髪を無造作に束ねている。常に伏せ目がちで、長い前髪の隙間から覗く水色の瞳からは一切の感情が読み取れない。
倒れた侍女は、意識が混濁し、浅く速い呼吸を繰り返している。
開犀が麗妃に向かって言った。
「ご安心ください、麗妃さま。これは『気逆』――すなわち、体内の気が異常に上昇し、脳に熱がこもっている状態です。私がすぐに気を下ろし、平穏を取り戻してみせましょう」
開犀は高らかに宣言すると、これ見よがしに黒檀の箱を取り出し、中から一本の鍼を摘み上げた。
「おお……」と、周囲の女官たちから感嘆の吐息が漏れる。
「ご覧ください。この黄金の鍼は、朱家の当主より、一番弟子である私にのみ使用を許された特別な代物。これこそが彼女を救う光となります」
開犀は、流れるような美しい所作で侍女の首の裏――後頭部と首の境目にある「天柱」のツボへと鍼をあてがい、手早く刺入した。さらに、手の親指と人差し指の間にある万能のツボ「合谷」にも鍼を打つと、指先でピンッと鍼の柄を弾いた。
ビィィンとかすかな金属音が響き、鍼が振動する。
「これぞ、朱家秘伝の『弾法』。鍼の振動が経絡を伝わり、滞った気を打ち砕くのです」
美丈夫が繰り出す華麗な鍼の技に、女官たちはうっとりと頬を染めている。
「んん?」
凜華は思わず身を乗り出し、開犀の手元を覗き込んだ。
黄金の鍼という時点で、引っかかるものがあった。
開犀の表情もなんだか危なっかしい。刺入角度と深さを見れば、彼が「血管や神経を傷つけること」を極端に恐れているのがわかる。
そもそも金という金属は柔らかく、深く刺すのには向いていない。
厚い筋肉に覆われた天柱への鍼は皮下組織の浅い部分で止まっており、筋膜はおろか、深層を走る重要な神経線維にはかすりもしていないように見えた。
天柱も合谷も自律神経の調整に有効な経穴であることは事実だが、あんな浅い刺激ではプラセボ効果以上の回復は望めない。万が一、脳圧が上がっていたら、下手に後頭部を刺激するのは危険でさえある。
案の定、侍女の顔色は一向に回復せず、喉の奥で「ウッ、オエッ」と苦しげな嘔吐反射を繰り返している。
……こいつ、ヤブではあるまいか。
凜華の胸の内に、開犀に対する不安がよぎった。




