第174話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十五>
やがて、景雲はぽつりとこぼした。
「私は、父が七十を過ぎてから生まれた子でな。成人しただけでも兄や姉が五十人近くいた」
「多いね! 成人しただけでって、それ以上産まれたってこと? すごいなあ〜!」
感嘆する凜華を、景雲はじろりと睨みつける。
「お前はここを薬師房の分室か何かと思っているようだが、後宮は本来そういうところだ。皇帝が、一人でも多くの子を設けるための施設だ」
「あ、はい。そうですね……」
「といっても、父があまりに長生きしたために、妃や子供の大半は先に亡くなってしまった。私が生まれた時には、兄や姉の多くがすでに鬼籍に入っていた。姉の多くは遠方に降嫁し、生きていたとしても会うことはない。これは公主の宿命だな」
六十年以上に渡る先帝の治世の間においては、皇帝が長生きすればするほど逆縁の嵐となった。
皇后や皇太子は常にいたが、それも本人の死去に伴い、次々と代替わりを続けたのである。
「現在、先帝の子で健在なのは私と姉だけだ」
「たった二人しかいないんだ……」
「甥や姪は山ほどいるんだがな」
「そのお姉さんが……西咸安公主?」
凜華が王掌事の口から出た名を口にすると、景雲は頷いた。
「ああ。しかも姉とは仲が悪い。正直なところ、顔も見たくないほどだ。だが、王掌事の話を聞いたら……咸安がああなってしまったのも、致し方のないことのように思える」
趙皇后が冷宮で凄絶な死を遂げた後、生き残った公主は冷宮から出された。
彼女が引き取られ、養育されることになったのは当初の予定通り、銀玲妃と景雲が暮らす杏花殿だった。
元々、咸安公主は趙皇后と杏花殿で暮らしていた。
生まれ育った殿舎を母と共に追い出され、また戻された形になる。新たな継母と、その腕に抱かれた弟と同じ屋根の下で暮らすことになった。
公主は、母の死の原因が自分にあるという深い罪悪感と、それを強いた皇帝、そして新たな皇后となった銀玲妃への憎悪を、すべて赤ん坊の景雲に向けた。
「まったく記憶にないが……咸安の憎悪は私に向けられたらしい。唯一、自分よりもか弱い存在だったからだろう」
公主は、乳母や使用人が目を離した隙を突き、たびたび景雲の部屋に忍び込んだ。
まだ赤ん坊だった景雲の肌をつねり上げ、拳で叩き、床に突き落とした。
火がついたように泣き叫ぶ景雲の声を聞きつけて、女官たちが飛び込んでくる。虐待が発覚するたびに大騒ぎになった。
公主は大人たちに引きずり出され、厳しい罰を受けた。鞭で打たれ、暗い土蔵に何日も閉じ込められた。
それでも、公主は景雲への虐待をやめようとしなかった。
むしろ、罰を受ければ受けるほど、瞳に宿る憎悪の炎は禍々しく燃え上がった。
このままでは何をしでかすかわからない。危険視された公主は後宮から出され、外廷へ移された。
景雲は自分が姉から虐待を受けていたという生々しいくだりは話さなかった。
「咸安は、私を憎みながら外廷で育ち……やがて、父の命令で西域の王族のもとへ嫁がされた。西国へ降嫁したため、西咸安公主と呼ばれている」
景雲は嘆息した。
「まあ、その後も色々あってな。今では、顔を合わせれば呪詛を吐き合うような関係だ」
景雲はそこで言葉を区切り、目頭のあたりを押さえた。
「王掌事は、私に咸安と和解して欲しいと言った。咸安は母を死なせた己を責め続けているのだと。……だが、正直なところ気が進まん」
悩める景雲に、凜華はあっさりと言った。
「うん、無理することはないよ」
景雲が驚いて目を向けると、凜華はいつものように飄々と言った。
「姉だろうと親だろうと、あなたを嫌っている人と仲良くしようなんて土台無理な話だって。だめな時はだめなんだから。足掻いても無駄だし、考えても無駄」
「といっても王掌事は……」
「王掌事さんの願いは、あくまで王掌事さんの願い。彼女の罪悪感とか後悔を、あなたが背負いこむ必要はないよ。ご近所からお裾分けされたからって、嫌いなものを無理して食べることはない」
「……お前の例えはいつも独特だな。言わんとすることはわかるが」
「でしょ? それに、お姉さんだって、あなたと和解したいなんて思ってないかもしれない。勝手に『和解してやろう』なんてウエメセで乗り込んだら、塩を撒かれるかもよ。だったら適度に距離をとったまま、それぞれで生活している方がずっと健全だよ」
「うえめせ?」
「上から目線」
「私は皇帝だぞ。元から最上位だ」
「なら皇帝から目線」
そのサバサバとした慰めに、景雲は呆気にとられ、やがて小さく噴き出した。
「……そうか。だめな時はだめか」
景雲は呟き、ふっと肩の力を抜いた。
「和解したいならすればいい。したくないなら、しなくていいよ」
「そうだな」
凜華は膝の上に抱いていたマヌルネコを持ち上げると、景雲の胸の上に乗せた。
「はい、落ち込んじゃう日は猫。猫が特効薬。猫カウンセリングが一番だから。奶ちゃんを触って癒されて」
「うおっ」
不意打ちを食らった景雲は、胸にずっしりと圧し掛かる毛玉を慌てて受け止めた。
「お、重いな……しかも相変わらず不機嫌そうな顔をしている」
「ほら、撫でて撫でて。もっふもふだよ」
「もふ……なんだと?」
「いいから、あごの下をこうサワサワって」
言われるがまま、景雲は恐る恐る奶団子のあご下を指先で掻いた。
ぶすっとした顔のままだった奶団子の目がとろんとし、やがてゴロゴロと重低音が鳴り始める。
「おっ、鳴いたぞ」
「ね? 可愛いでしょ。少なくとも、この子はあなたを裏切らないよ」
「裏切らないじゃなくて、裏切りようがないの間違いだろう。猫だぞ? 餌をくれる者に懐いているだけだ」
と文句を言いつつも、景雲の指先は奶団子の分厚い冬毛に埋もれ、心地よさそうに撫で続けている。
「そうやって素直じゃないことを言う。ほんとは嬉しいくせに」
「何を言うか。猫ごときに懐柔はされん。私は皇帝だぞ」
「はいはい、威厳ある皇帝陛下。でも今一番威厳があるのは、あなたの上でふんぞり返ってる奶ちゃんだけどね。猫から目線」
軽口を叩き合いながら、ずんぐりとした温かい毛玉を撫でる。
飾らない凜華の明るさと、臆病ながらもふてぶてしい猫の存在。後宮には似つかわしくない温もりに、景雲の顔は次第に綻んでいった。
その夜、王掌事は再び昏睡状態に陥った。そして二日後の未明、眠るように静かに息を引き取った。




