第173話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十四>
「お前が己の命を惜しんだことを、誰が責められようか。恐ろしかったのだな。生きたかったのだな。お前はただ職務を果たそうとしたに過ぎない。だから、もう自分を苛むな」
皇帝からの温かい言葉に、王掌事はしゃくりあげるように泣いた。その瞳には最後の力を振り絞るような、切実な願いが宿っていた。
「陛下。どうか、西咸安公主さまと和解なさってくださいませ」
「咸安と?」
「はい……。公主さまは、自分が冷宮に入ったから、母君は死んでしまったのだと。ずっとご自分を責め続けておられます。何十年経っても、あの方の苦しみは終わらない。今も冷宮の暗い闇の中に囚われておいでなのです……」
王掌事は、縋るように景雲の手を握り返した。
「どうか陛下の代では、生き残られたお二人……陛下と西咸安公主さまが、過去の呪いから解き放たれ、健やかにお暮らしになりますように。それが、死にゆく私の最後の願いでございます」
王掌事の声は次第に細くなり、最後は途切れ途切れとなった。泣き濡れたまま、力尽きたように目を閉じ、また深い眠りに落ちていった。
夜の帳が降りた長楽殿は、深い静寂に包まれていた。
銀の燭台に灯された蝋燭の炎が頼りなく揺れている。
香炉から立ち上る沈香の香りは、普段ならば心を落ち着かせるはずだが、今夜ばかりは香すらも重く感じられた。
居間の長椅子に横たわった景雲は、官舎から戻って以来、口を閉ざしたままだった。彼は組んだ手を胸に置き、ぼんやりと宙を見つめている。
その顔には、己の血筋と後宮の闇に絡め取られた一人の青年としての疲労が色濃く滲んでいた。
凜華は特に話しかけたりもせず、奶団子に餌をやったり、ふかふかの毛を櫛でブラッシングしたりした。ひとしきりマヌルネコと遊ぶと、安眠茶を淹れて景雲に差し出した。
白磁の茶器から立ち昇る湯気が、部屋の空気を和らげる。
景雲は茶を少しだけ飲むと、やっと言葉を見つけたかのように口を開いた。
「要するに、秀倫は、族滅された趙家の仇を取るために私を狙ったのか」
疑問というよりも、無理矢理でも自分を納得させようとする意志が感じられた。先帝によって一族を惨殺された恨み。親を殺された私生児が、復讐の刃を皇帝の息子へと向けた。
そう考えれば、秀倫の最期の微笑みにも説明がつく……ような気がする。
凜華は、小さいながらもはっきりとした声で答えた。
「それは違うと思う」
景雲がわずかに顔を上げ、凜華を見る。
「なぜだ。趙家の生き残りであるならば、帝室を憎む動機としては十分すぎるだろう」
「確かに、復讐や仇討ちは珍しくないんだろうけどね」
この世界、この国は封建社会。「家柄」や「血筋」が重要視されることは凜華も理解している。かつての日本がそうであったように、仇討ちが推奨されているのかもしれないが……。
凜華は王掌事が語ったことを思い出しながら、ゆっくりと続けた。
「趙家が滅ぼされたのは、彼女が三歳の時でしょ。三歳なんて何も覚えちゃいないよ。趙家の籍にも入れてもらえなかったんだし。自分と母親を捨てた男とその一家がどうなろうと、残された側からすれば『知ったこっちゃない』というのが本音じゃないかな」
「いや、しかしだな……」
「それにね」
凜華は、景雲の呆れたような視線を受け止めながら言った。
「百歩譲って、一族を滅ぼされたことを恨むにしても、先帝を狙うならともかく、息子のあなたを殺そうとするのは変だよ。秀倫さんが、趙皇后の悲惨な死を自分のことのように受け止めたとしても……直接の関係はないんだし。そんな希薄な『血の因縁』だけで、己の命を投げ打つとは思えない」
「では、何故あんな真似をしたのだ」
「もっと別の事情……あなたを狙わざるを得ない、切実な理由があったんじゃないかな。たとえば、黒幕に弱味を握られて脅されていたとか、どうしても大金が必要だったとか。彼女は言ったじゃない。『でも血族が生きていたとしても、そんなことはどうでもよいのです』って。これがすべてだよ」
「そうなのだろうか」
「ほら、前にあなたに鳥兜の毒を盛ろうとした剽娘さんだって、あなた個人に恨みがあったわけではない気がする。お母さんの薬をあげるとか、自由にしてあげるとか耳当たりのいいことを言われたんじゃないかな」
「剽娘か。そういえばそんな女もいたな」
景雲は深く息を吐き出した。
彼は、別に秀倫を助けようなどとは思っていなかった。
放火は重罪であるし、皇帝の命を狙った時点で極刑は免れない。それは秀倫もわかっていたはずだ。何も明かさず自害してしまったのは残念だが、行きつく先は同じだ。
彼が不可解なのは、秀倫が「王掌事をも殺そうとした」という事実だった。
「わからん……」
景雲は自嘲するように唇を歪めた。
「私には、人の心がわからん。秀倫は恩人である王掌事をも巻き添えにしようとした。先は長くないとはいえ、親代わりの人間を焼き殺そうとするとは……どんな理由があれ、そんなことができる人間が私には理解できない。とはいえ、それを言うなら父もそうだな。父こそ理解できない人間の最たるものだ」
景雲の苦悩は深かった。
「私は父が為したことに今も振り回され、正直辟易している。だが、父がなぜ苛烈な粛清を繰り返したかは……今ならわかるような気がする」
凜華は、また膝の上に乗ってきたマヌルネコを揉みながらじっと耳を傾けている。
「父の治世は長かった。信頼していた人間たちに裏切られ、命を狙われ続けるうちに、誰も信用できなくなったのだろう。きょうだいや妻子であっても」
殺さなければ殺される疑心暗鬼の日々。怪しいものは罪のあるなしに関わらず、先手を打って排除するしかない。猜疑心という名の毒に生涯苦しみ続けるのが、皇帝の宿命なのかもしれなかった。
景雲の口元に、ひどく寂しげな笑みが浮かんだ。
「……私も人間不信に陥りそうだ」
その痛切な呟きに、凜華は何も言えなかった。
安易な慰めを口にすれば、かえって彼を傷つけそうな気がした。




