第172話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十三>
「そして十歳の時、縁あって女官見習いとしてここへ入ってまいりました。私があの子を一から教育し、女官にしたのです。今でも信じられません。秀倫は本当に賢く、仕事のできる良い子でした。私が病に倒れてからも、甲斐甲斐しく看病してくれて……。まさか陛下のお命を狙うなんて」
景雲は腕を組むと、頭を巡らせた。
「秀倫は、自分が趙杷の娘であることを知っていたのか?」
「いいえ!」
王掌事は強く首を振った。それからゴホゴホと激しく咳き込んだ。凜華が湯冷ましを持ってきて、少しずつ飲ませた。咳が落ち着くと王掌事は再び口を開いた。
「知らなかったはずです。私も伝える気はありませんでした。あの子は他家の養女として育ち、養父母のことを本当の親だと信じていました。給金で物品を買って贈ったりして孝行に励んでいました。今更血筋を蒸し返すことに何の意味がありますか。女官として立派な働きをしてほしい、穏やかに生きていってほしい……そう願っていたのです」
王掌事の言葉に嘘偽りがないならば、答えは一つしかない。
誰かが、秀倫の出生の秘密を知る何者かが、彼女に接触し、真実を教えたのだ。
「お前は実の親に捨てられたのではない、帝室によって一族を惨殺されたのだ」と毒を吹き込み、彼女の心に憎悪の火を点けたのか。
そして、「蟻木精」という不可視の毒を与え、彼女を皇帝暗殺の尖兵へ仕立て上げたのか。
自らの喉を掻き切る直前、秀倫が虚空に向かって呟いた「申し訳ございません、私では力不足でした」という言葉。あの時、彼女の心に何がよぎったのか。
王掌事の告白はそれだけでは終わらなかった。彼女は懸命に声を振り絞った。
「陛下、私はもう長くはありません。この命が尽きる前にどうか聞いてくださいませ。私の心残りはただ一つ……西咸安公主さまのことでございます」
「西咸安公主……」景雲の表情が一変した。
先帝の時代、趙皇后はライバルの銀玲妃を呪詛した罪で廃位され、冷宮へ幽閉された。
その時、趙皇后の娘の咸安公主は、母と引き離されることを嫌がり、泣いて母の着物の裾にすがりついた。そのまま離れず、共に冷宮の門をくぐってしまったのである。
公主が命令に逆らい、冷宮に入ったことに先帝は激怒した。先帝は冷酷にも、冷宮へ運ぶ食事を本来通り「一人分」とするよう厳命を下したのである。
「本来なら、趙皇后さまお一人が冷宮に入るはずでした。公主さまは銀玲妃さまが暮らす杏花殿で養育されるはずだったのです」
先帝は咸安公主を新皇后の銀玲妃の元に置き、景雲と共に育てさせるつもりでいた。
「ですが、公主さまがついて入ってしまわれた……。先帝陛下のご命令は絶対でした。運ばれる食事は一人分のみ。それ以上を届けることは固く禁じられたのです」
王掌事は震える手を胸の前で組んだ。
「母子は……たちまち飢えに苦しむことになりました。趙皇后さまは、愛する我が子を苦しめまいと運ばれてくる食事のすべてを、公主さまに与え続けたのです。ご自身は何も召し上がらず……ただ水だけを飲んで」
王掌事の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「やがて趙皇后さまは衰弱し、正気を失っていかれました。黒い土のようなものを食べ、恐ろしい幻覚を見、苦痛に悶えながら、わけのわからぬことを口走り……」
凜華は息を呑んだ。趙皇后が正気を失った理由はすでに判明している。麦角菌中毒だ。空腹をまぎらわし、娘を生かすため、母は自らその毒を食み、狂乱の中で命を散らした。
「お許しください。お許しください陛下!」
王掌事は激しく咽び泣いた。
「私は当時、冷宮の管理を任されておりました。趙皇后さまは何度も私にすがってこられました。美しい絹の服や宝石を私に差し出し……『これをあげるから、どうか食べ物をおくれ。娘がひもじい思いをしてしまう。何でもあげるから、どうか食べるものを』と泣いてすがりつかれて。でも、でも私は……!」
王掌事の声が、血を吐くような叫びに変わる。
「先帝陛下が恐ろしかったのです。命令に背けば、自分が殺される。ご自分の血を分けた娘にさえ酷い仕打ちをなさる方が、どうして下僕ごときを許しましょうか。死にたくなかった。自分の命が惜しかったのです。私は食べ物を持っていたのに、冷宮にも持っていけたのに……母子を見殺しにしました。人倫にもとる罪を犯したのです……!」
王掌事が秀倫を宮廷に入れ、女官に育てあげた理由。
それは、趙皇后を見殺しにしたという深い罪悪感からくる、せめてもの罪滅ぼしなのかもしれなかった。
恐怖と悔恨が織りなす悲劇の鎖。
どれほど時間が経とうとも、先帝が遺した血の歴史は後宮で腐臭を放ち、今なお生きる者たちを蝕み続けていた。
景雲は、知らず知らずのうちに、固く拳を握りしめていた。その指先は白くなり、瞳には耐えがたいほどの痛みが満ちている。
父である先帝が妻と娘にした冷酷な仕打ち。
そして、それに関わらざるを得なかった下僕たちの叫び。
景雲は腰を落とし、王掌事の震える手をしっかりと握りしめた。
「もういい。もう何も言わなくていい」
景雲の声はひっそりとし、どこまでも重かった。




