第171話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十二>
一つの命が、決して明かせない秘密を抱えたまま潰えた。
黒幕の正体に迫る唯一の手がかりは、秀倫の自害とともに葬り去られたのである。
部屋は、濃密な血の匂いと沈黙に満ちた。
秀倫の遺骸が、刑部官の手によって運び出されていく。
白布で覆われた骸が去った後には、血の跡と凄絶な余韻が残されていた。
景雲は、血で汚れた頬を拭いもせず、じっと秀倫の命が途絶えた床を見つめていた。
その美しい面貌には疲弊と落胆の色が陰を落としている。首謀者どころか、動機の端緒すら掴めないまま、重要な証人を失ってしまった。
「……外廷へ戻る。何かあれば報告せよ」
景雲は呟くと、一度だけ凜華を痛切な眼差しで見つめた。それから部屋を出て行った。
外に待機していた宦官たちが慌てて後を追う。さらにつき従う近衛兵たちの足音が、寒々とした廊下に響き渡る。
残されたのは、凜華と泣き崩れる彩華、そして彩華の肩を抱く麗衣だった。
「どうして。どうしてこんなことに……」
彩華は顔をくしゃくしゃにして咽び泣いた。
秀倫は厳しかったが、頼れる先輩でもあった。彼女が何者かの指示を受けた暗殺者であったことは理解したが、いまだ心が追いつかない。麗衣もまた沈痛な面持ちで、彩華の背を擦り続けていた。
夜になると、凜華が木精の調査を依頼した刑部官が戻って来た。
彼は木精の流出ルートを突き止めるため、尚方監へ行った。
「尚方監に保管されている木精の在庫を確認しました。ここ数ヶ月、木精が持ち出された形跡はなく、職人たちも使っていないとのこと。壺の封も破られておりませんでした。呼び出した会計官に帳簿の照合を行わせましたが、数字も完全に一致しました。尚方監から木精が外部へ流出した事実はありません」
刑部官の報告により、麗衣が尚方監の職人を介して木精を手に入れたという容疑は晴れることとなった。
さらにその後の調べで、麗衣が密かに会っていたという若い職人は、彼女の親族であることが確認された。宮廷で暮らし、互いを支え合うために連絡を取り合っていたに過ぎず、そこにはいかなる不審な企ても、やましい関係も存在しなかった。
「麗衣と彩華。両名ともに過失はあれども罪はなし。よって釈放する」
刑部官の言葉を聞いた瞬間、麗衣は深く頭を下げ、彩華は再び涙をこぼした。二人は礼を言って出て行ったが、離れの自室に戻る足取りは重かった。
疑いは晴れたものの、目の前で秀倫が自害したこと、近日中に上司の王掌事をも失うであろう冷厳な事実が、二人に暗い影を落としていた。
翌日の昼近く。
冷たい朝靄がようやく消えた頃、凜華のもとに知らせが届いた。消渇病の悪化により昏睡状態に陥っていた王掌事が、意識を取り戻したというのだ。
凜華が急ぎ官舎の奥に移された王掌事の寝所に入ると、そこにはすでに景雲の姿があった。彼もまた見舞いの約束を果たすべくやってきたのである。
薄暗い室内には、濃厚な煎じ薬の匂いと、死期を予感させる空気が漂っている。
寝台には、骨に皮膚がへばりついたような王掌事が横たわっていた。
かつて司設司の女官たちを束ね、厳格かつ穏やかに差配していた面影はない。落ち窪んだ両目からは涙があふれ、幾筋も頬を伝っていた。
「陛下。薬師さま……」
王掌事は掠れた声で二人を呼ぶと、震える手を伸ばし、身を起こそうとした。
「動いてはだめ。そのままで」
凜華が枕を置いてその背を支えると、王掌事は涙に濡れた顔を景雲に向け、絞り出すように言った。
「お許しください。どうかお許しください陛下……。これは私の不徳の致すところ。秀倫が、あの秀倫が大逆を企てるなんて……。すべては私の過ちでございます……」
王掌事の胸を突くような慟哭に、景雲は首を振った。
「お前のせいではない、王掌事。お前は病に伏していたのだ。何もわからなくても仕方ない。だが、なぜ秀倫は私の命を狙ったのか。お前には何か心当たりはないか」
景雲の問いかけに、王掌事は途切れ途切れに息を吐き出した。
「お許しください。陛下をたばかるつもりはございませんでした。秀倫は……あの子は、趙家の生き残りでございます。かつて謀反の罪で族滅された、趙家の当主・趙杷の庶子です」
「なに……? 趙杷の庶子だと?」
景雲は驚いた。現在把握している人員以外に、趙家の生き残りがいるとは思わなかった。先帝の時代に滅ぼされた趙氏は、一部を除いて女子供に至るまで許されなかった。
「初めて聞いたぞ」
「無理もございません。秀倫は日影の身でしたから。秀倫の母親は趙把の妻にはなれず……。秀倫は認知こそされましたが、趙姓を名乗ることは許されませんでした。母子はいくばくかの金を与えられ、屋敷から放逐されたのです。秀倫が三歳の時、趙家は謀反のかどで一族郎党ことごとく捕らえられ、趙把も彼の子供たちも全員処刑されました。ですが、秀倫は趙家の籍に入っていなかったため、母親と共に命は助かったのです。とはいえ、趙家の血縁であることに変わりはありません。秀倫は後顧の憂いを断つため養子に出されたのです」
王掌事は目をつむり、遠い昔の痛みに耐えるように喘いだ。




