第170話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十一>
「だが、王掌事の部屋に入ったのはお前だ」
景雲が続けて尋ねる。
「なぜ犯人はお前を私と間違えたのだ」
「同じ外套を着ていたから」
凜華は自身の着ている衣を指差した。
「王掌事の部屋に行った夜、私はあなたからもらった毛皮の外套を着て、目深にフードを被っていた。足には本来は男物である長靴を履いていた。犯人は壺天閣の居間で、衣桁にかかった毛皮の外套を見ていた。あの外套は陛下が普段使いしているもので、これを着てやってきた私を陛下だと思い込んだのね」
皇帝の外套を羽織り、長靴を履いた人間。
夜であれば、見舞いに訪れた皇帝その人だと誤認してしまうのも無理はない。
「私が官舎へやってくるのを見たか、あるいは誰かに聞いた犯人は急いで王掌事の部屋に入った。麗衣さんと彩華さんが設置した釜の中に、ギ酸を染み込ませた茶葉を放り込んで火をつけた。これは標的が来る直前でなくてはならなかった。あらかじめ釜を焚くわけにはいかない。蟻木精の毒気を吸って、王掌事が死んでしまうからね。見舞いにきて、当の本人が死んでいたらあなたはどうする?」
「扉を開けて人を呼ぶな」
「すぐに騒ぎになってしまうよね。それじゃ殺せない。陛下には王掌事と二人きりで、一定時間部屋にいてもらわなければならなかった。だから犯人はギリギリのタイミングを見計らって茶葉を投入し火を熾したの」
凜華は釜に何かを入れる仕草をした。
「ところが、やってきたのは私だった。おまけに偶然にも外套から静電気が出て引火してしまった。来たのが陛下ではなく、私がボヤを消してしまったと知った時、犯人はさぞかし驚いたでしょうね。皇帝暗殺に失敗した瞬間から、保身に回らざるを得なくなってしまった」
「だから捜査攪乱のため同僚に罪を着せ、言い争いを仕掛けたのだな」
景雲の顔に納得の色が浮かんだ。
「あと私を犯人とする密告もそう。すべては偽装工作」
そこで凜華はすっと目を細めた。
「蟻木精は一介の女官が用意できる代物じゃない。資金に設備、何より薬や毒物の専門知識が必要不可欠。彼女はただの実行役に過ぎないわ。背後に手引きをした仲間か、指示を出した黒幕がいるはず。密告をしたのは別の人物よ」
「それも吐かせねばならんということだな」
景雲は苦虫を噛み潰したような顔で、改めて秀倫を見た。
「聞いたか、秀倫。もはや言い逃れはできん。誰の差し金だ。後宮の者か、朝廷の重臣か、それとも他国が絡んでいるのか。黒幕の名を吐け。素直に白状すれば、貴様一人の命で済ませてやる。だが黙秘を貫くというのなら、九族ことごとくを誅し、一族郎党の血で石畳を洗うことになるぞ」
地獄の底から響くような残酷な宣告だったが、秀倫は無表情のままだった。
「ご安心ください。私に九族などおりません。血族は先帝陛下に誅されましたし、養父母も亡くなりました。私はこの世に身一つです」
「なに?」
「でも血族が生きていたとしても、そんなことはどうでもよいのです。本当に……どうでもいい」
ふふっと笑い声が響いた。
左右の役人に押さえられながら、秀倫は笑った。
「素晴らしい。本当に素晴らしい推理と知識です、凜華さま。さすがは主上の寵愛厚き方。お見事としか言いようがありません」
そこに浮かんでいたのは、まるで憑き物が落ちたかのような、不気味なまでに達観した微笑だった。
秀倫は虚空を、はるか彼方を見つめるようにしてポツリと言った。
「申し訳ございません。私では力不足でした」
その声は深い悲哀と、取り返しのつかない後悔に濡れていた。
「誰に言っているのだ。秀倫、答えろ!」
景雲が大きな声を発する。しかし、秀倫の耳に現世の声は届いていないようだった。
次の瞬間だった。秀倫は、信じられないほどの力で刑部官の腕を振りほどいた。
彼女の右手が履いていた靴の底に滑り込み、かかとの部分から銀色の鋭いものが取り出される。靴底に仕込んでいた暗器だった。
「捕らえよ!」
景雲の咆哮が空気を震わせる。
秀倫は、自身を取り押さえようとする役人たちには目もくれず、手にした白刃を構え、凜華に向かって突進した。
「凜華!」
景雲が叫び、凜華の盾となるべく飛び出した。
刺される。誰もがそう思った。
だが――。
凜華を刺し貫くかと思われた秀倫は、彼女に刃を向けなかった。
突進の勢いのまま、秀倫は速度を緩め、景雲が凜華を庇って押し倒すよりもほんの一瞬早く、両手で握りしめた小刀を力一杯引いた。刃が向けられたのは、彼女自身の細く白い首筋だった。
ズシュッと、肉と血管を断ち切る湿った音が響いた。
秀倫の指先は、迷うことなく自らの喉を一文字に、深く掻き切った。
「あ……」
彼女は最期に、声にならない息を漏らした。
秀倫の首から紅蓮の血飛沫が、扇を描くようにして中空へ噴き出した。鮮血は、身を挺して凜華を庇った景雲の頬に降りかかった。
「嫌あああああっ!」ひと呼吸置いて、麗衣と彩華が絶叫した。
「秀倫……っ!」
景雲の叫びにも応えず、秀倫は糸の切れた操り人形のようにどうっと倒れた。
仰向けに倒れた顔に苦痛はなかった。
致命傷を負い、急速に命の灯が消えゆく中で、彼女の瞳は昏い深淵を映し出した。
その口元には、先ほどの達観した笑みが張り付いている。
痙攣する指先が、何かを求めるように空を切り、やがてパタリと床に落ちた。
立ち上がった凜華が駆け寄った時、彼女はすでに絶命していた。




