第169話 冬宮の静火、蟲毒の始末<十>
名指しされた秀倫は、かすかに顔を引き攣らせたものの、すぐに能面のような無表情へと戻った。
秀倫は、隣りで震える麗衣と彩華を横目で見る。
「何度でも言いますが、私は王掌事さまのために、新しい茶葉を茶釜に入れただけです。茶葉は薬師房から取り寄せた苦丁茶。茶葉にギ酸が染み込んでいたと言われても……何のことやら。麗衣や彩華が知らずに毒を入れてしまったというなら、私だって被害者です。私も知らずに茶葉を入れてしまった。真犯人は他にいます」
「あなたはあくまでも王掌事のために茶を淹れたと言うわけね」
「そうです。苦丁茶はお薬ですから」
秀倫ははっきりと言いきった。
「それはおかしいね」
「なぜでしょうか」
「さっきあなたは言ったじゃない。彩華さんに『私が茶釜に葉を足した時、お湯はぐつぐつと煮え立っていた』って。なんで?」
「なんでって……」
「苦丁茶を沸騰したお湯に放り込んだりすれば、とんでもない異臭を放つし、ただでさえ苦い味がさらに苦くなってしまう。ずっと王掌事に仕え、看病をしてきたあなたがこのことを知らないとは思えない。薬としてのお茶は『水から煮出す』のが常識よ。熱湯に茶葉を放り込むなんて、なんでそんなおかしな作り方をしたの?」
秀倫の目が、獲物を狙う蛇のように細められた。
「……王掌事さまは病気で苦しんでおられました。苦丁茶の鎮痛成分を短時間で引き出すには、冷水からではなく、あえて煮え立った熱湯に投じて急激に抽出するしかありません。看病の常識よりも、主の痛みを和らげることを優先したのです。何もおかしなことはありません」
理路整然とした反論だが、凜華はふっと口角を上げた。
「なるほど、理にかなった言い分ね。でも、それならあなた自身の証言と完全に矛盾する」
「何がでしょう」
「本当に『ぐつぐつ煮え立った湯』だったのなら、どうして彩華さんがむせ返って逃げ出したほどの『塩精の異臭』に気づかなかったの? 沸騰したお湯に高濃度の塩精が混ざっていれば、塩化水素の猛毒ガスがもうもうと立ち込める。部屋に入った瞬間に喉を焼かれて息もできないはずよ」
「それは、私が部屋に入った時には一時的に炭の火が弱まっていて。匂いも落ち着いて……」
「塩精の揮発性を甘く見ないで。熱が残っている限り、刺激臭が消えることはあり得ない。お湯が煮え立っていたと言う割に、あなたが茶釜に蓋をしたのも不自然。煎じ薬を急激に煮出すなら、吹きこぼれやアクを防ぐために蓋をずらすのが鉄則でしょう」
秀倫の額に、じわりと冷や汗がにじんだ。
「私は、ただ薬の成分を逃がすまいと無我夢中で……!」
「苦しい言い逃れね」
凜華はピシャリと言ってのけた。
「理由は簡単よ。あなたは釜の中にあるものが、ただの水でないことを知っていた。もし、熱された木精と塩精の混合液にギ酸を投入したら、あっという間に蟻木精が生成されて『突沸』を起こす。熱された酸と猛毒のガスが爆発的に飛び散って、あなた自身の身が危うくなる。下手をすればその場で引火してしまう。これではターゲットを殺せない。だからあなたは、釜が熱くなる前に茶葉を投入した。なのに嘘をついた。……なんで嘘をついたのか。最初から蟻木精の性質を知っていたからよ」
「……」
秀倫は押し黙った。
「貴様……! なんという女だ。蟻木精を作って王掌事を殺そうとしたばかりか、その罪を下の者になすりつけようとするとは」
とうとう堪えきれなくなったのか、景雲が叫んだ。
皇帝の怒声に刑部官たちは下を向き、麗衣と彩華は小さく悲鳴を上げて平伏した。
「王掌事は長年後宮にて多くの妃に仕え、献身してきた功労者だ。貴様ら下役の面倒もよく見てきた。次の掌事の座を狙ってのことか、あるいは怨恨か……いずれにせよ、このような凄惨な手段で殺そうとするとは。断じて許さん。極刑をもって……」
「陛下、待って。話はまだ終わってない」
景雲の怒髪天を突くような怒りを、凜華はスッと手を挙げて遮った。
「犯人は九割九分九厘、秀倫さんよ。木精の調査が終われば確定する。でも、彼女の標的は王掌事じゃない」
「……なんだと?」景雲は呆気に取られた。
「標的が王掌事ではない? 蟻木精の罠が仕掛けられたのは王掌事の寝所だぞ。彼女を殺すためでなければ、何のためにこんなことを……」
「だから不自然なんだって」
凜華は秀倫を見つめたまま、考察を述べ始めた。
「王掌事は消渇病の末期だよ。私が作った薬だって痛みを和らげるためのもの。病を治すことは不可能なの。暗殺のセオリーから考えて、わざわざ手の込んだ方法で死に体の上司を殺める必要はない。次の掌事の座を狙っているなら尚更」
凜華の指摘に、景雲はハッとした。
確かにその通りだ。怨恨があったとしても、もうすぐ死ぬ人間をわざわざ危険を冒してまで殺すことはない。
「では……」
景雲の顔に別の焦燥が浮かび上がった。
「お前を狙ったのだな? 薬師のお前を殺すために薬を届けに来た時を狙って……!」
「私でもない」
凜華はあっさりと首を横に振った。
「私を殺すにしてはコスパが悪すぎる」
「こ、こすぱ……?」
突然飛び出した凜華語(と呼んでいる)に、景雲は間の抜けた声を発した。
「こすぱとはなんだ」
「費用対効果のこと。掛けた労力や資金に対して、得られるものが見合っているかどうか」
凜華は、平皿の上の茶葉の残骸を指さした。
「木精や塩精はまだしも、ギ酸を作り出すにはとんでもない手間とお金がかかるはず。一介の薬師を殺めるのに、そこまで労力をかけるなんてどう考えても割に合わない」
「しかし、現にここに蟻木精が仕掛けられた。王掌事でもなくお前でもないのなら……一体誰を狙って」
凜華はそこで、困惑する景雲を真っ直ぐに見つめた。
「あなたよ」
凜華の声は明瞭だった。
「命を狙われたのは、皇帝であるあなた。犯人はあなたに毒ガスを吸わせて中毒死か、焼死させようとしたの」
「私……だと」
「あなたは壺天閣の居間で、彼女たち三人を前にして言った。『近いうちに王掌事のところへ見舞いに行く』と。確かにあなたは私と一緒に、ここに来る予定だった。急な軍事上奏がなければ、王掌事の部屋に入っていたのはあなただった」
凜華はいったん言葉を切り、大きく息をついた。ようやく事件の全貌を理解したのである。
「……話せ。全部話せ」
景雲は険しい顔で続きを促した。
「犯人からすると、あなたが見えない毒の気体を吸って倒れてくれればよし。引火して火が出れば尚よし、といったところね。火事になって部屋が燃えれば証拠隠滅できるし、死因も焼死や煙を吸ったことによる不幸な事故として処理できるから。完璧な暗殺計画よ。だからこそ莫大なコストを掛けてまで、蟻木精という不可視の炎を用意したの」




