第168話 冬宮の静火、蟲毒の始末<九>
凜華は、再び三人をじっと見つめた。
彼女たちのささいな反応を見逃すまいとする。
「犯人は、ただの木精を使ったわけじゃない。木精にギ酸を混ぜ、そこに触媒として劇薬である塩精を入れた」
「ギ酸とはなんだ」
景雲の問いに凜華は即答した。
「蟻よ」
「アリ? 虫なのか?」
「うん。数万匹の生きた蟻を煮詰めて作るもの」
ギ酸は、元々は「蟻酸」と書き、その名の通り蟻から作られる。
まず深山に住む「赤大蟻」を数万匹集める。これを蒸し焼きにして、蟻が吐き出した「ギ酸」を抽出する。さらに蒸留器にかけ、密封してとろ火で数日煮込む。蒸留されて滴り落ちる、水のように澄んだ酸っぱい芳香の液体を回収すれば完成である。
「毒虫同士を共食いさせるわけじゃないけど、蟲毒の一種と言っていいと思う」
「だから蟻木精か……。それが、あの見えない炎の正体だというのか」
凜華の説明に、景雲も役人たちもぎょっとした。生きた蟻を煮詰めて絞る時点で、気味が悪くて仕方ない。
「蟻木精は木精と同じように無色透明の炎を出す。その沸点は、木精の六十五度に対して……わずか三十二度。真夏の気温と同じよ。今は冬だけど、部屋に目張りをして火を焚けばこの温度は容易に作れる」
「そんなに低いのか……。逆に言えば、寒い時期にしか作れない毒ということだな。夏場は何もせずとも気化してしまうゆえ」
景雲の声には、深い戦慄が混じっていた。
「その通り。当時、王掌事の部屋の室温は三十度を超えていた。そして私が部屋に入った時、すでに蟻木精が火鉢の周りに充満していた。だからこそ私の外套が静電気を放った際に火が出たの。犯人にとっては想定外の火がね」
凜華の頭の中では、すでに犯人が蟻木精を作った手順が組み上がりつつある。問題は、誰が確信的に毒の精製に関わったかだ。
凜華は手持ちの薬箱から小瓶を取り出し、蓋を開けて彩華の前に持っていった。
小瓶からは鼻や目にツンとくる刺激臭が漏れ出す。彩華は顔を背け、激しくむせ込んだ。
「彩華さん。あなたが火鉢に茶釜を設置した時、嗅いだ異臭はこれじゃない?」
「は、はい」
彩華は観念したように頷いた。
「どうしてこの匂いを嗅ぐことになったの」
「それは……釜の中に薬を入れるよう命じられたからです。これを入れると、王掌事さまの胃腸の消化を助けると言われて。なので小瓶に入っていた液体を釜に注ぎました。そしたら変な匂いがして……怖くなって外に飛び出したんです。でもその時は、薬の匂いだと思っていたから……」
「これは塩精で劇薬だよ。確かに薄めれば、消化不良や胃酸欠乏症の治療に使えるけどね。そのまま入れるなんてありえない」
といっても素人に塩酸と薬の区別はつかない。
凜華もそこを追及しても仕方がないことはわかっている。
「それで、あなたは誰に塩精を入れるよう命じられたの」
彩華は、自分と同じくうずくまった女を見た。
視線の先には――秀倫がいた。
「秀倫さまに命じられました」
彩華は秀倫を睨みつけながら、はっきりと言いきった。
途端、秀倫が気色ばむ。
「違います。私はそんなことを命じていません。この女は、私に罪をなすりつけようと苦し紛れに嘘を言っているだけです」
「嘘! この期に及んでまだそんなこと言うの。大嘘つきはあんたよ!」
彩華がヒステリックに叫ぶ。またもや激しい言い争いが始まりそうなのを、凜華は制した。
「オッケー。一つずつ潰していこう。次は木精」
凜華は、刑部官の一人をひょいひょいと手招きした。
その耳元に何ごとか囁く。刑部官は承知とばかりに頷き、足早に部屋を出て行った。
「木精は木精で調べてもらう。最後はギ酸ね。苦丁茶の茶葉が入っていた入れ物を持ってきて」
刑部官が、苦丁茶の葉が収められている茶筒を運んできた。
「これは誰が管理しているの」
「秀倫です。茶筒も秀倫の私物です。拘束した際に没収しました」
みなの視線が秀倫に集中する。秀倫は疑惑を跳ね返すように胸を張った。
凜華は秀倫の茶筒を覗き込んだ。
ほんのひとつまみ程度だが茶葉が残っている。茶葉を取り出すと別の平皿に入れた。
「残留物にギ酸が含まれていることを証明する方法は二つある。『銀鏡反応』と『フェーリング反応』というんだけど、どちらも試薬を作るのが大変でね。今、硝酸銀水溶液を用意することはできない。でも試薬は必要ない。お酒で証明できるから」
凜華は薬箱の中から別の小瓶を取り出した。
これは高濃度の白酒である。消毒用に携帯しているものだった。
凜華は酒を茶葉に数滴垂らした。そして、手燭の火で熱した茶匙の背を、茶葉へぎゅっと押し付けた。
次の瞬間、突如として甘く芳醇な香りが立ち昇った。
それは茶の匂いでも、酒の匂いでもなかった。完熟した桃や、ラズベリーのような果実の芳香に似ていた。
「な、なんだ。この甘い香りは……!」
驚く景雲に、凜華はこの日初めて不敵な笑みを見せた。
「出た。これは『エステル化反応』のもう一つの姿。苦丁茶の茶葉には、ギ酸が染み込ませてあった。今度は白酒のアルコールと熱で結びついて、果実の香りを持つ別の物質、『ギ酸エチル』に変化したの。普通の茶葉に酒を垂らして熱を加えても絶対にこんな香りは出ない」
「これが蟻木精の毒の匂いか」
景雲は露骨に顔を背け、袖で鼻を覆った。
「違う。ちょっとややこしいんだけど、今作ったのは『蟻酒精』のギ酸エチル。これと同じ原理で、茶釜の中で木精と合体して作り出されたのが『蟻木精』でギ酸メチル。ギ酸エチルも毒だから、深く吸い込まないでね」
「頭がこんがらがるな。めちるもえちるも毒気ということか」
凜華はおもむろに腕を組み、仁王立ちした。
「按ずるに……犯人が蟻木精を作り上げた手順はこう。彩華さんが茶釜を設置し、薬と言われた塩精を入れる。これは高濃度の塩化水素が溶け込んだ強酸で、反応を強制的に進める触媒。次に麗衣さんが水を注ぐ。これは水と見せかけて、高濃度の木精が混入されていた。最後に部屋に来た秀倫さんが、ギ酸をたっぷり吸わせた苦丁茶の茶葉を茶釜に放り込む。火鉢の炭に火を熾して蓋を閉める。水温が三十二度を越えれば中でできた蟻木精が気化する」
「つまり三人ともグルで犯人というわけだな」
女官三人が共謀し、上司の王掌事と凜華を殺そうとしたと思うと景雲は激しい怒りを覚えた。
反対に殺されかけた凜華は冷静そのものである。
「違う。わざわざ作業を分担する意味がないし。これは犯人が仕掛けた捜査攪乱と、自分以外の人間に罪を着せるための工作だと思う。三人のうち、二人は何も知らずに釜に蟻木精の原料を入れてしまっただけ。犯人は一人。単独犯よ」
凜華はそこで、毅然として顔を上げた女を確信を持って見つめた。
「秀倫さん、あなたよ。王掌事の部屋に蟻木精を仕込んだのはあなた」
※現代におけるギ酸メチルは、蟻ではなく石油や天然ガスから作られています。




