第167話 冬宮の静火、蟲毒の始末<八>
彩華が猛然と叫ぶ。
「じゃあ、麗衣さんですよ。この人が単独でやったんです」
「なんですって、この小娘がッ! いい加減なこと言わないでよ」
麗衣の堪忍袋の緒が切れた。彼女は役人の制止を振り切り、猛然と彩華に飛びかかった。
「きゃあっ!」
「よくもぬけぬけと嘘を。あんたが全部仕組んだことでしょうが。か弱ぶってんじゃないわよ」
麗衣の爪が、彩華の白く柔らかな頬を容赦なく引っ掻いた。彩華も黙ってはいない。
「何すんのよ、この厚化粧のあばずれがっ!」
彩華は麗衣の髪を両手で鷲掴みにし、引きちぎるように引っ張った。
「痛いっ、離しなさいよ馬鹿」
「あんたこそ。自分が死刑になるのが怖いからって私に罪をなすりつけないでよ!」
彩華が掴んだ襟が力任せに引き裂かれる。それは目を覆うばかりの凄惨な修羅場であった。
ほんの数日前まで互いに労わり合い、主を献身的に看病していた麗衣、彩華、秀倫の三人。
後宮の礼節を身につけたはずの女官たちは、いまや阿修羅の顔となり、折り重なるようにして互いの髪を掴み、衣を引き裂き合いながら、罵詈雑言を叫び続けている。
人間の最も醜い感情――保身、恐怖、嫉妬、そして憎悪。
それらが混ざり合い、臨界点を突破して爆発した瞬間であった。
「……止めよ。見苦しい」
景雲が、心底嫌悪に満ちた声で命じた。刑部官が数人がかりで、二人を引き剥がして床に押さえつける。肩で激しく息をしながら、三人は互いを殺気に満ちた目でにらみつけた。
凜華はその間も、彼女たちをじっと見つめていた。
瞳には、女たちの醜い争いに対する軽蔑も同情もない。
試験管の中で沸騰し、有毒なガスを噴き出しながら色を変えていく化学反応を観察するような、冷徹な理知の光だけが宿っている。
「……凜華よ。これがお前の見たかったものか?」
景雲が嘆息しながら問いかけた。
「そうね。感情は、時に真実を濁らせる不純なノイズになるけど……」
凜華はどこか達観したように言った。
「こうして激しくぶつかり合うと、嘘が蒸発して真実が沈殿することもある」
凜華は、役人に目配せをした。
「茶釜を持ってきて」
役人たちが木卓と真鍮製の茶釜を運んできた。
凜華は、薬箱から薬匙を取り出すと茶釜に近づいた。
匙の先を茶釜の底へ差し込み、ガリガリと鈍い音を立てて中身を削り取る。
掬い上げられたのは、どす黒く変色し、ドロドロのヘドロ状になった茶葉の残骸だった。鼻を突くような酸の匂いと、苦丁茶の強烈な青臭さが混ざり合った匂いを放っている。
「……ひどい匂いだな」
景雲が眉をひそめて問うた。
「ええ。これはただの茶カスじゃない。茶葉の表面を覆っている脂溶性のワックス成分が、異常なほどにドロドロに溶け出している。これは極めて強力な『有機溶媒』によって、茶葉の髄まで成分が過剰抽出された証拠」
凜華は、匙の先のヘドロを平皿に移し替えた。
「有機溶媒とは、水以外の揮発性のある特殊な液体のこと。私はこの匂いと燃焼の状況から、使われたのは『木精』だと思ったんだけど……」
次に凜華の口から放たれたのは、自らの推理を根底から覆すものだった。
「違う。これは木精じゃない。私は最初の見立てを撤回する」
「なんだと?」
景雲が驚きの声を上げ、床の女官たちも弾かれたように凜華を見上げた。
凜華は説明を始めた。
「木精の沸点は約六十五度。確かに水よりは低いけど、火鉢の上に茶釜を置いてから、私が部屋に入るまでの間に、静電気で火がつくほどの高濃度のガスが噴出することはありえない。火鉢の火力と茶釜の熱伝導率。そして木精の蒸気圧。どう見積もっても気化の速度が足りない。あの爆発的な火事を引き起こすには、六十五度よりも遥かに沸点が低く、熱に触れた瞬間に蒸発する『恐ろしい物質』が必要不可欠なの」
「木精よりも恐ろしい物質……? そんなものがここにあったのか」
「それを、今から見せる」
凜華は手燭を持ってこさせ、薬箱から「赤銅の線」を取り出した。銅線の先端を、火の中へ差し入れる。
火に舐められた銅線は瞬く間に赤熱し、表面の銅が酸素と結びついて真っ黒な酸化銅の被膜を形成していく。
凜華は黒く変色した銅線を引き抜き、皿の上のヘドロへと押し付けた。ジュッと音がして、有機溶媒の残骸が熱い銅線の先端にたっぷりと付着する。
「よく見ていてね」
凜華は、ヘドロの付着した銅線を再び火の中へ差し入れた。次の瞬間、目も眩むような鮮烈な光の柱が立ち昇った。通常のオレンジ色の炎ではない。妖しくも美しい「青緑色の炎」だった。
「あっ……!」
「な、なんだこれは……!」
青緑色の禍々しい光が、役人たちの顔を照らし出す。
「炎色反応だな。初めて見る色だが」景雲が慣れた声で言った。
凜華が答える。
「そう。熱した赤銅の表面に『塩精』の成分――すなわち塩酸が触れて燃焼した時にだけ、このような鮮やかで美しい青緑色が出る。人間の汗や、自然の茶葉に含まれる微量の塩分程度じゃ、これほど鮮烈で強い光の柱は続かない。すぐ他の色に負けて消えてしまう。茶釜の底に『高濃度の塩精』の残骸が溜まっていた決定的な証拠よ」
「塩精が入っていた……?」
景雲が眉を寄せる。凜華は銅線を火から遠ざけた。
幻のような青緑の炎が消え、室内に再び静寂が戻る。
「犯人は木精だけでなく、塩精も混ぜて毒性を高めようとしたのだな?」
景雲の推測に凜華は首を横に振った。
「違う。毒性を強めるために塩精を入れたわけじゃない。現場に散らばった事実を組み合わせれば、犯人が何を作ろうとしたのか正解を導き出せる」
凜華は、平皿のヘドロを指し示した。
「第一の事実は、今の炎色反応で証明された『塩精』。第二の事実は、私が残留物から感じた鼻を突き刺すような不快な酸の匂い。そして第三の事実は……『異常な気化速度』」
凜華は、床の三人の女官を見下ろした。
「本来、水を嫌う化学反応において塩精は邪魔になる。でも犯人は水分を極限まで飛ばし、劇的に反応を促すための『強力な触媒』として塩精を使いこなした。『木精』と『有機酸』、そこに促進剤としての『塩精』が加わった時……茶釜という密閉された鍋の中で何が起きるか。脱水縮合、いわゆる『エステル化反応』が急速に進むの」
「えすてる……とやらはよくわからんが、結果としてどうなるのだ」
「全く別の、恐るべき揮発性の液体が誕生する」
凜華の声が冷たく部屋に響いた。
「その毒物の名は……『蟻木精』。ギ酸メチルよ」
凜華は意を決したように一歩前へ出た。
「間違いない。真犯人はこの中にいる」
そこで彼女は念のため言い足した。
「あ、私じゃないよ?」




