第166話 冬宮の静火、蟲毒の始末<七>
凍てつくような冬の陽光が、かつて王掌事が横たわっていた寝室――今では刑部によって封鎖されている官舎の、窓枠から差し込んでいた。事件の起きた部屋には、今、張り詰めた緊張が満ちている。
部屋の最奥、臨時に設えられた黒檀の椅子に腰を下ろしているのは、皇帝・景雲である。彼は一切の感情を排した氷の目で、平伏する三人の女官を見下ろしていた。
その傍らには凜華が立っている。かくして、皇帝同席という異例の取り調べが幕を開けた。
刑部官の容赦のない尋問が始まった。迅速かつ徹底的な裏付け捜査と、官舎に出入りしていた宦官や宮女たちの証言が机上に並べられていく。
やがて浮かび上がってきたのは、あの不可視の炎が現出した時刻の直前に生じた三人の「奇妙な空白の時間」であった。
「……まずは秀倫」
刑部官の声が響くと、最も年長で落ち着いた秀倫は、きっと顔を上げ真っ直ぐに見つめ返した。
「お前は王掌事のために、新しい苦丁茶の葉を茶釜に入れたと証言しているな。事件の直前、あの部屋の最後の状態を作り上げたのはお前だ。茶葉に偽装して、木精などの毒を仕込む機会は十分にあったはずだ」
「私はただ己の職務を全うしたのみにございます」秀倫の声は驚くほど澄んでおり、一本の細い絹糸のようにしなやかだった。
「王掌事さまは消渇病の苦しみから逃れるため苦丁茶を求めておられました。私が釜に葉を足したのは事実。ですが、そこに可燃性の毒など仕込む理由はどこにもありません」
「次は彩華」
呼ばれた彩華は「ひぃっ」と悲鳴を漏らした。
「お前の役目は、火鉢の上に茶釜を据えることであったな。お前は事件の少し前、真っ青な顔をして部屋から大慌てで飛び出した。その姿を複数の宮女に目撃されている。この部屋でお前は何を見て、何に怯えて逃げ出したのだ」
彩華の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ、あの……わ、私は……っ。茶釜の匂いがいつもと違う気がして……。もしかして空のまま火にかけて、茶釜を焦がしてしまったのかと。それで叱られるのが怖くなって逃げ出してしまったのです」
「匂いだと? 茶釜を置いただけで異臭がするはずがないだろう。お前自身が茶釜に『何か』を仕込んだからこそ異臭がして、恐ろしくなって逃げたのではないか」
「違います、違います!」
彩華は、床に額を何度も打ち付けながら泣き喚いた。
「最後に麗衣」
刑部官の声が響くと、濃い化粧を施した麗衣の肩がビクリと大きく跳ねた。
「お前はあの夜、事件の少し前に茶釜に水を入れるために王掌事の部屋に入った。だが、外を通りがかった宦官の証言によれば、お前は床に四つん這いになり、敷物を掻き分けて『何か』を必死に探していたというではないか」
麗衣の顔からさっと血の気が引いた。
「そ、それは」
「調べはついている。お前は、尚方監の若い金細工職人との間に付き合いがあるとか」
そう言われた瞬間、麗衣の顔は恐怖と羞恥で引きつった。
「確かにお付き合いはありますが、やましい関係ではありません。あの時は彼から貰った瑪瑙の耳飾りの片方をなくしてしまって。王掌事さまのお部屋で落としたと思い込んで、必死に探していただけです。茶釜には何もしていません。水を注いだだけです」
「職人と付き合っているなら、高純度の木精も手に入るのではないか?」
「違います。木精なんて見たことも触ったこともありません。信じてください」
麗衣は悲鳴を上げ、顔を両手で覆い隠し、なよなよと崩れ落ちた。
木精は木からの乾留で抽出するにしても、単なる女官に用意できるような代物ではない。あれだけの高濃度の木精を密室に仕掛けるには、相応の知識と設備が必要だ。尚方監の職人ならば、木精を用意して渡すことが可能だが……。
三者三様の証言。
秀倫の茶釜への最後の接触。
彩華の不自然な逃亡。
麗衣の異性関係と不審な探索。
誰もが時間的な空白と機会を持っていた。
「……ふむ」
景雲が冷ややかに息を吐いた。
「見事なまでに誰もが怪しいな。全員に機会があり、全員が嘘を吐いているように見える」
その皇帝の呟きは、絶望の淵に立たされた三人の女官たちの間に、決定的な亀裂を走らせた。
自分が疑われている。このままでは、自分が「透明な炎」を操った殺人未遂犯として処されてしまう。
恐怖が飽和点に達した時、人間の理性はいとも容易く破れ去る。
「……麗衣」
最初に口火を切ったのは、それまで冷静だった秀倫だった。
彼女は、隣で震える麗衣をきっと睨みつけた。
「あなた、職人の男との密会を王掌事さまに気づかれて叱られたのでしょう? あなたは毛皮だの宝石だのの贅沢品が大好き。そもそも職人に近づいたのも、彼が作る金細工や宝飾品目当てだった。瑪瑙の耳飾りとやらも盗んだものでしょう。それを咎められて王掌事さまを逆恨みし、殺そうとしたのね」
「なっ……!」
麗衣が、弾かれたように顔を上げた。
妖艶な顔は、羞恥から一転、夜叉のような凄まじい怒りで歪んでいた。
「適当なことを言わないで。王掌事さまは彼との付き合いはご存知なかったし、叱られてもいない。耳飾りも盗んだものじゃない。むしろ怪しいのはあなたでしょうが。いつもお澄まし顔だけど、内心では次の掌事になりたくて仕方なかった。王掌事さまを疎んじて、早く死んで欲しいと願っていたのはあなたよ」
「何を言うの。恥を知りなさい!」
秀倫は立ち上がろうとして役人に押さえつけられたがおさまらず、さらに声を荒げた。
「彩華! あなたもよ。あなたが逃げ出したのは、木精を茶釜に注いだから。だから急いで避難したのね。最初から麗衣とグルだったのね」
矛先を向けられた彩華は、それまでの怯えた表情を一変させ、獣のように甲高い悲鳴を上げた。
「違う。私は何も入れてない。秀倫さまです、この人がやったんです。秀倫さまが茶筒に毒を入れて茶葉と一緒に入れたんです。麗衣さまが床を這いつくばって、火鉢の回りに火がつきやすいように細工をしたに決まっています。私以外の二人が犯人です」
「愚かな言いがかりね」
彩華の血走った視線を受け止め、秀倫は酷薄な笑みを浮かべた。
「よく考えなさい、彩華。私が茶釜に葉を足した時、お湯はぐつぐつと煮え立っていた。もし私の茶葉に可燃性の毒とやらが仕込まれていたなら、その場で爆発していたはず。私が無傷で部屋を出たことが、無実の証拠よ」
理路整然とした反論に、刑部官たちが「確かに……」と納得したように顔を見合わせる。
その時、凜華が口を開いた。
「ぐつぐつ煮え立つ熱湯に、苦丁茶の葉をそのまま投じたの?」
「ええ、そうですよ」
秀倫の返答に凜華は押し黙り、三人の様子を眺める。




