第165話 冬宮の静火、蟲毒の始末<六>
騒乱の夜が明けた後宮は、奇妙な静けさに包まれていた。
焦げた絹の異臭と、湿った灰の匂いが充満する官舎。
凜華の機転によって王掌事の命は守られたものの、部屋の惨状は、誰の目にも「単なるボヤ」では済まされない作為的な恐怖を物語っていた。
捜査は早朝から始まった。
騒ぎを聞いてやってきた野次馬たちが遠巻きに見守る中、刑部の役人たちが現場に慌ただしく出入りする。
壺天閣では、凜華が鏡の前に座り、寿寿にチリチリに焦げてしまった前髪と後れ毛をハサミで切ってもらっていた。
「ひどい。髪は女の命なのに……」
傷んだ毛先を切り落としながら、寿寿は自分の髪が焦げたかのように涙声で言った。
「また生えてくるから大丈夫だよ。火傷を負う方がよっぽどきついって」
鏡に映った自分を見て、凜華はカラカラと笑った。
実際のところ、間一髪だったと思う。アルコール気体の見えない炎に飛び込んで、髪の毛が縮れた程度で済んだのなら御の字だ。
「でも髪の長さが不揃いになっちゃいますし」
「うーん、だったらパッツン前髪にしようかな」
寿寿はとんでもないとばかりに顔をしかめた。
「だめですよ。それは子供の髪型です。凜華さんはもう立派な人妻なんですから。前髪なんて作ったら、陛下がなんと仰るか」
「ええ……? 年齢で髪型が決まるの?」
「年齢じゃないです。結婚したらばっちり結わないと」
「結婚してないし! 面倒くさいし!」
二人が軽口を叩き合っていると、扉を叩く荒々しい音がした。刑部の役人が数人入ってくる。
その表情は硬く、手には一通の書状が握りしめられていた。刑部に出どころ不明の告発状が届いたという。
彼らはその場で書状を読みあげた。
『王掌事を殺害せんと試みたのは、薬師の凜華である。彼女は精巧な可燃性薬物を茶釜に仕込み、自ら持ち込んだ毛皮の外套に蓄えた静電気を導火線として火を放った。これは、王掌事を狙った薬師による暗殺未遂事件なり』
そのあまりに荒唐無稽かつ自分を名指しした内容に、凜華は唖然とした。
「私が、犯人……?」
誰が告発状を送ってきたのかはわからなかった。
昨夜拘束された秀倫、麗衣、彩華の三人は隔離されており、手紙を書いて外部に送ることは不可能である。
つまり、あの三人以外の別の人物が、事件を把握した上で凜華に濡れ衣を着せようとしている。凜華は不気味極まりないものを感じ、背筋が寒くなった。
密告状は、毒にも似た説得力で刑部の役人たちの心を支配した。
現場に残された唯一にして決定的な物証。
それは、凜華が纏っていた外套の毛先だった。
外套の袖口は焦げており、火鉢の真鍮の縁には、黒ずんだ火花痕とともに「獣毛の焦げた繊維」がいくつも貼り付いていた。加えて、茶釜の取手には凜華が日頃扱う薬油の香りが漂っていたという。
「持ち込んだ毒液を仕込み、静電気を起こすため火鉢に毛皮をこすりつけた」という状況証拠は、凜華こそが犯人だと指し示していた。このままでは、凜華自身が容疑者として捕らえられてしまう。
皇帝・景雲の耳にその報告が届いたのは、正午を過ぎた頃だった。彼は聞いた途端、龍紋が刻まれた机をこぶしで強く叩いた。
「馬鹿な。そんな妄言を誰が信じるというのだ。末期の病人のために薬を調合し、火事をも食い止めた凜華が、患者を殺そうとしたなど」
景雲の激怒に、居並ぶ重臣たちはみな青ざめ、床に平伏した。とはいえ、景雲が何を言ったところで、周囲は凜華を愛するがゆえの庇い立てとしか受け止めない。冤罪を証明するには、きっちり真犯人を捕まえるしかない。
景雲はただちに壺天閣に李元を送り、凜華の様子を見に行かせた。
渦中の凜華は、不快な顔をしつつも平然と言ってのけた。
「どこの誰だか知らないけど、目に見えない炎を操り、私を犯人に仕立て上げようとしている。めちゃくちゃ性格が悪いし、いい根性してるじゃない」
凜華は立ち上がると、厳しい顔で李元に言った。
「一日だけちょうだい。必ずこの謎を解いてみせる」
彼女が行うのは、魔術でもなければ口八丁の弁論でもない。
「毒液が気化する早さ」と「水と合わさった際の濃度の変化」、そして「毛皮の摩擦が生む火花の強さ」を再構築する理に基づいた検証である。
監視の役人を伴って官舎の現場に入った凜華は、まず昨夜自分が蹴り飛ばした茶釜と、その周辺の床を調べた。茶釜からぶちまけられた液体を慎重に小瓶へ回収した。
彼女は瓶の口に手をかざすと、軽くあおぎ寄せながら匂いを嗅いだ。アルコールならではの刺激臭が鼻を突く。
「木精の匂いがする。でも、それだけじゃない。このツンとする酸味のある刺激はなんだろう」
ただの木精と苦丁茶が混ざった匂いではない。微量ながらも、何か別の化学成分の痕跡がある。
さらには、苦丁茶を煎じる際に用いられた道具類や、給湯についても調べた。
刑部の聴取記録と照らし合わせると、茶を沸かす際の手順が浮かび上がってきた。
火鉢の上にきれいに洗った「茶釜」を持ってきて置いたのは彩華。
そこに「水」を用意して注ぎ入れたのは麗衣。
湯が沸いたあとに「茶葉」を投入したのは秀倫である。
三人が関わったこの作業。誰が、どのタイミングで毒液を仕込むことができたのか。
凜華は、ひととおり調べ終わると、背後に立つ刑部の役人に振り返った。
「明日、あの女官三人を連れてきて。ここで取り調べを行ってほしい。できれば陛下にもご同席願いたいわ」




