第164話 冬宮の静火、蟲毒の始末<五>
室内に充満しつつあったアルコールの気体は燃え尽き、あるいは凜華が開け放った扉から冷たい夜気と共に外に押し流されていった。
これ以上の引火の危険はないと判断した凜華は、よろめきつつ部屋の外へと出た。
肺いっぱいに清浄な空気を吸い込む。外にあった水瓶の氷を割り、水を手ですくって何度もうがいする。水の冷たさに手は痺れたが、喉の奥にへばりついた刺激臭はなくなった。
そのままバシャバシャと顔も洗っていると、慌ただしい足音が複数近づいてくるのが聞こえた。
「凜華さま……? 一体何事ですか!」
血相を変えて駆けつけてきたのは、秀倫、麗衣、彩華の三人だった。
仮眠でも取っていたのか、わずかに衣の乱れた彼女たちは、開け放たれた扉から漏れ出る焦げ臭い匂いと、真っ黒に炭化した窓枠の目張り紙を見て驚愕した。
「嘘……。火事ですか……?」
彩華が両手で口元を覆い、へなへなとその場に座り込む。
麗衣は室内の熱気と匂いに咳き込み、
「なんでこんなことに。少し目を離した隙に、炭の火が爆ぜたのでしょうか」
とひどく怯えた声で言った。
「王掌事さま!」
秀倫は主人を案じて叫び、部屋に入ろうとした。
しかし、凜華はスッと身を挺して扉の前に立ち塞がり、制止した。
「中に入らないで」
「どうしてですか? 掌事さまが中にいるのですよ」
「王掌事は無事よ。現場保存しなくちゃいけないから入らないで。誰か、今すぐ刑部の役人を呼んできて」
「け、刑部……? なぜ捕吏を。これはただのボヤ騒ぎでは……」
麗衣が目を見開いて食い下がるが、凜華はじっと三人を見つめる。
「ボヤだけど、ただのボヤ騒ぎじゃない。火気は私が放った静電気が原因。でも苦丁茶を煎じた程度で室内が燃えるわけがない。この部屋には、木精のような純度の高いアルコールの気体が発生していた」
凜華の説明に、三人の女官は息を呑んだ。
「木精は自然発生する代物じゃない。つまり、これは不慮の事故ではない。誰かが意図的に、茶釜か火鉢の周りに毒物を仕込んだのよ」
誰を狙ったものなのか。消喝病で余命幾ばくもない王掌事なのか。それとも全く別の目的なのか。まだ事件の全容は掴めない。
ただ、この異常に暑い密室を作り上げ、木精が気化しやすい環境を整えた三人が、無関係であるとは思えなかった。
ほどなくして、騒ぎを聞きつけた巡回中の兵士と、急報を受けた刑部の役人たちが官舎に踏み込んできた。
凜華の簡潔な説明と、不自然すぎる現場の状況から、事件性は明白だった。
「この三人は監視下におけ」
刑部官の命令により、秀倫、麗衣、彩華の三人は重要参考人として即座に拘束された。
「ひどい。何かの間違いです」
「私たちは何もしていません!」
「離して!」
しきりに抗議する三人の叫びが、冬の夜の闇に吸い込まれていった。
三人を見送ったその直後だった。
「凜華……!」
凍てつく空気を切り裂くように、焦燥に駆られた声が響き渡った。軍事上奏の対応を終え、急ぎ駆けつけてきた景雲だった。
供の宦官たちを引き離す勢いで走ってきた皇帝は、前髪や外套を焦がした凜華の姿を見るなり、血の気を失った。「お前……その姿はなんだ。無事なのか、怪我は?」
普段の泰然自若とした帝王の姿はない。取り乱した景雲は凜華の両肩を掴み、その身を食い入るように検分した。
「服が燃えているではないか。火傷したのか?」
肩を掴む手がかすかに震えていることに気づき、凜華はふっと表情を和らげた。
「火傷はしてない。外套が焦げちゃったのは残念だけど、髪の毛がチリチリになったくらい。あと煙を吸ってちょっと喉が痛いかな」
飄々と答える凜華に、景雲は大きく息を吐き出した。
「火気と木精を使ったものだと聞いたが。張憲が時間操作のために使った毒液ではないか」
「火気は静電気で出たのは偶然だけどね。むしろ静電気が散ったおかげで助かったまである」
「助かった? なぜだ」
「早めに火が出たからこそ、アルコールの気体が火鉢の周囲にあるとわかったの。出なかったら気づかずに吸って倒れていた。私も王掌事も助からなかったかも」
火鉢の周囲には、すでに高濃度の「可燃性アルコールガスの溜まり」が形成されていた。そこに、凜華の毛皮が放った静電気という引火源が投げ込まれた。
この場合、何より恐ろしいのはこの「静火」――透明な炎の特性である。炭や薪が燃える際の赤い炎は、炭素の微粒子が熱せられて光ることで生じる。
しかし、純度の高い木精の炎は、オレンジ色の光を持たない。明るい部屋や、昼間の光の下では、人間の目にはほとんど見えない無色透明の炎となってしまう。火の気がないように見えて、その実、百度を優に超える超高温の炎が空間を舐め回している。
視覚による警告がないまま、被害者は気づいた時には全身を焼かれ、気道に超高温のガスを吸い込んで致命傷を負ってしまうのだ。
「透明な炎だと……? そんなものに気づけるわけがなかろう」
「うん、だから恐ろしいの。これを仕込んだ相手も相当なものだよ」
「もし気づくのが遅れて、気体が充満した後に火が出たらどうなったのだ」
「大爆発。致死量の熱波を浴びてた。髪の毛が焦げるどころじゃない」
「……」
景雲の端正な顔が、怒りと恐怖で青ざめていく。
「もしや、狙われたのは王掌事ではなく……」
凜華なのか。これは、彼女の命を狙った暗殺計画ではないのか。そう思うと、景雲は奈落に落ちていくような暗澹たる気分になった。
遅ればせながら、薬師房の薬師や宦官たちも官舎に入って来た。人が増えて辺りは騒然とする。
景雲は周囲を見回した。
「とにかく無事でよかった。今日はもう遅い。お前は壺天閣へ戻れ。現場の本格的な検証は、明日に持ち越す」
景雲の厳命により、官舎はいったん封鎖されることとなった。役人たちが、部屋から眠ったままの王掌事を運び出してゆく。
護衛に囲まれて夜道を戻りつつ、凜華はまだかすかに焦げ臭い髪に触れ、自分が目撃したものを頭の中で整理し始めていた。
あの圧倒的なまでのアルコールの気体。
木精だと思われるが……何か引っかかる。
シュンシュンと蒸気を噴き上げていた真鍮製の茶釜。
あの茶釜の中に、水や茶葉だけでなく、高純度の木精が仕込まれていたとする。
木精の沸点は、約六十四・七度。
水の沸点である百度よりもはるかに低いが……。
火鉢で熱せられた茶釜の中で、水よりも先に木精が気化し、蒸気となって噴き出したのか?
にしては、爆発的な気化のスピードが気になる。
もし凜華が来る前から出ていたのなら、王掌事は毒気を吸って息絶えているはずである。とすると犯人は凜華が来る直前に、毒を仕込んだことになるが……。
「そうなると時間的に無理があるな……」
密室、異常な熱気、苦丁茶の匂い、不可視の炎。炎を出した気体の謎。
パズルのピースは揃いつつあるが……何か腑に落ちない気がして、凜華は夜空をぼんやりと見上げた。




