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宸眷薬師の異世界調剤事件簿 ~ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない~   作者: kiyoaki
第二部 広がる世界、複雑化する事件

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第163話 冬宮の静火、蟲毒の始末<四>

 凜華は、額に滲む汗を拭うことも忘れ、胸に抱えた薬壺を落とさぬようきつく抱き直した。薄暗い紗(しゃ)の帳(とばり)が引かれた寝台へと歩み寄った。

「王掌事。凜華です。新しい薬を持ってきました」

 囁きかけたが、病床の主は応えない。肌に脂汗を浮かべ、浅い呼吸を繰り返すばかりである。弱々しい脈を確かめようと、凜華が寝台の脇に身を乗り出し、紗の帳を払いのけようとして右腕を大きく振り上げたその時だった。


 ――チリッ。

 熱気のなかで、極めて微小な亀裂音が響いた。それは、極寒の外気を歩き続けたことで、漆の壺と外套の獣毛との間に、溜め込んだ静電気が解放された音だった。一条の青白い火花が、室内に閃いた次の瞬間である。

「……えっ?」

 凜華の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。視覚的な前触れなど、何一つなかった。火鉢の周囲の空気が、突如としてボワァッと震動音を立てて爆発的に膨張したのだ。

 それは、局所的な爆発的燃焼であった。目に見えない「熱の塊」が、凄まじい突風となって凜華の身体を打ち据える。


「きゃあっ……!」

 数歩後ずさった凜華の頬を、地獄の釜の底から吹き上げるような熱波が撫で上げた。前髪の先が、チリチリと音を立てて一瞬で縮れる。

 何が起きたのか。火鉢が爆発したのか。いや、違った。

 火鉢の中の炭は、相変わらず静かに赤い熾火を保っている。だが、確実に周囲の何かが「燃えて」いるのだ。

 凜華は、信じられない光景を目の当たりにして戦慄した。火鉢の周囲の空気が、真夏の陽炎(かげろう)のようにぐにゃぐにゃと歪み、生き物のようにうねっている。

 その「何もない空間」に触れたはずの窓枠の目張り紙が、突如として端から茶色く変色し、瞬く間に炭化してボロボロと崩れ落ち始めた。


 さらには、寝台を覆っていた絹の帳の裾までもが、見えない獣の舌に舐め取られたかのように、音もなく黒く焦げ、煙を上げ始めているではないか。

 炎の色がない。火柱も、赤い光も存在しない。

「目に見えない超高温の熱風」だけが、狂ったように密室の中を暴れ回りっている。燃えているのに炎が見えない。

 そんな現象を引き起こす魔法は、この世には存在しない。

 あるとすれば、それは極めて純度の高い「特定の化学物質」が燃焼している時だけだ。

 明るい場所や、不純物のない状態での燃焼において、無色透明の炎を上げる物質。アルコールランプの火。その中でも、最も危険でかつ精製され得る猛毒の液体。


「木精……?」

 凜華の口から、戦慄の単語が絞り出された。この部屋にはメタノールが充満している。

「なんでそんなものが!」

 憤っている暇はなかった。

 目に見えない炎の舌は、すでに王掌事の寝台の帳を焼き切り、昏睡状態にある主の髪の毛にまでその透明な牙を伸ばしつつあった。

 見えない炎は、通常の水では消えない。

 アルコール火災に不用意に水をかければ、燃えたままの液面が周囲に広がり、かえって被害を拡大させる。

 重要なのは酸素を断つことである。凜華は、恐怖に竦む足を叱咤し、毛皮の外套を翻して火炎の渦中へ身を躍らせた。目に見えない熱波が、むき出しの肌を刺すように焼く。

 髪の毛がチリチリと焦げる匂いが鼻を突いたが、構っている余裕はない。


 凜華は、猛烈な蒸気を吹き出し続ける元凶、火鉢の上の真鍮製の茶釜に向かって渾身の蹴りを放った。

 ガアンッという重い金属音が響き、茶釜が火鉢から転げ落ちる。中から、煮えたぎった苦丁茶とアルコールと思われる混合液が、ドボドボと床にぶち撒けられた。これは計算ずくの行動だった。

 床にこぼれたことで急激に温度が下がり、気化の速度が落ちる。茶釜の水分と混ざり合うことで、アルコール濃度も強制的に下げられる。


「次はこれ……!」

 凜華は振り向きざま、部屋の隅に置かれていた看病用の水が入った手桶へと走った。

 近くにあった分厚い綿の毛布を引き寄せると、手桶の水をバシャバシャと浴びせかけ、水を含ませる。持ち上げるのも苦労するほど重くなった濡れ毛布を抱え上げると、凜華は再び、見えない炎がうねる火鉢の周辺へと飛び込んだ。


「消えろ!」

 濡れて重くなった毛布を、火鉢と燃え広がろうとしていた床の液体に、上から覆い被せるように叩きつけた。

 ジュワアァァァッという凄まじい音とともに、大量の水蒸気が白く爆発するように立ち昇る。可燃性ガスの供給源を絶ち、さらに濡れ毛布で覆い隠すことによる窒息消火。

 低沸点アルコールの火災を鎮める原始的かつ確実な手段である。


 毛布の下で、見えない炎がなおも酸素を求めて暴れ、布を焦がそうとしている。布を透過して立ち昇る熱湯とアルコールの高熱蒸気に生身で覆いかぶされば、全身がただれかねない。

 凜華は機転を利かせ、履いていた特注の冬用長靴、頑丈な革靴で、毛布の端を力強く踏みつけた。

 さらに手近にあった木椅子をとっさに引き寄せて反対側の縁に押し当てる。

 空いた四隅を手桶の底や自らの膝を使って必死に押さえ込み、空気が流入する隙間を徹底的に塞ぐ。

 隙間から吹き出す熱風で顔が熱い。息ができない。煙と刺激的なアルコールの蒸気で肺が焼かれそうになる。


 それでも凜華は、歯を食いしばり、痛む手足に全体重をかけて必死に毛布を押さえ込んだ。

 やがて――。

 荒れ狂っていた熱気が、嘘のようにスッと引いていく。

 後に残ったのは、焦げた絹の異臭と、苦丁茶の不快な青臭さ、激しく息を乱す凜華の荒い息遣いだけだった。

「はぁっ……はぁっ」

 凜華は煤で黒く汚れた顔を上げ、床にへたり込んだ。

 お気に入りの外套はあちこちが熱で縮れ、無惨な姿になっている。だが、そんなことはどうでもよかった。


 振り返ると、寝台の上で王掌事は荒い息を吐きながらも無傷のまま横たわっていた。奇跡的に、火傷一つ負っていない。

「……助かった」

 震える手で顔を覆い、凜華は長く細い息を吐き出した。

 もし、静電気が起きるのがもう少し遅かったらと思うとゾッとする。あの透明な炎は自分たちを飲み込み、火災事故となっていただろう。



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