第162話 冬宮の静火、蟲毒の始末<三>
冬の夜の帳は、凍てつく結晶を含んで舞い降りる。
すべての生命の営みを拒絶するかのような極寒の中、司設司の長・王掌事が暮らす官舎は、時を止めた豪奢な棺のように、闇のなかにひっそりと佇んでいた。
建物の窓という窓、隙間という隙間には寒さ対策の目張りが施されていた。頑丈な木枠には、幾重にも重ねられた油紙が糊付けされ、わずかな風の侵入をも許さない。
扉の合わせ目には、厚手の絨毯の端切れが隙間なく詰め込まれ、外界の冷気を遮断していた。一歩内部に足を踏み入れると、冬の後宮とは信じがたいむせ返るような熱気に満ちていた。
「王掌事さま、苦しいですか。今、お楽にいたしますからね」
薄暗い室内、四隅に配された火鉢では炭が赤く燃え、絶え間なく熱を吐き出している。室温は異常なまでに上昇し、温室か、あるいは温泉にでも迷い込んだかのようなサウナ状態と化していた。
その密室の中で、王掌事の部下である三人の女官——秀倫、麗衣、彩華は自らも汗だくになりながら、入れ替わり立ち代わり訪れて献身的な看病を続けていた。
秀倫は、布で主の額に浮かぶ脂汗を幾度も拭っている。その切れ長の瞳の奥には、前夜に景雲が見舞いを告げた瞬間に宿した暗い光が、未だ冷ややかに揺らめいていた。
その傍らで、麗衣は汗によって化粧が崩れていくのも厭わず、火鉢の灰を甲斐甲斐しく掻きならしている。その指先は時折、かすかに震えている。
彩華は、相変わらずおどおどしたまま手桶の湯を運び、寝台の周りをせわしなく動き回っている。
三人の女官による、どこかいびつな緊張を孕んだ献身。
その中心にある天蓋付きの寝台では、かつて後宮の物品管理を一手に差配してきた王掌事が、やつれきった顔で横たわっていた。不治の病に侵された彼女の唇からは浅く荒い呼吸とともに、ひどく甘酸っぱい匂いが漏れ出している。
死の気配がする病臭を打ち消すかのように、部屋の中央に置かれた一際大きな火鉢の上では、鈍い黄金色の光沢を放つ真鍮製の小さな茶釜が、シュンシュンと音を立てて蒸気を吐き出していた。
茶釜の中で煮えたぎっているのは、王掌事が愛飲する「苦丁茶」である。苦丁樹の若葉をすり潰して煮詰めた、鋭く青臭い香気。
強烈な緑の匂いが、濃厚な蒸気となって室内の布類や調度品に染み込み、空間の空気をどろりと変質させていた。病人の喉を潤し、部屋を加湿・芳香するための処置――一見すると、主を想う宮女たちの涙ぐましい配慮そのものである。
翌日の夜。
空には、氷の刃で削り出したような三日月がかかり、澄んだ光を屋根瓦へと降らせていた。大気は極限まで乾燥し、吐く息は一瞬で白くなる。
凍った土がシャリシャリと音をたてる冬の道を、凜華は一人、足早に歩いていた。
「……さぶっ! 今夜は一段と冷え込むなあ」
凜華は毛皮の外套に包まり、フードを被っていた。
足には冬用の長靴を履いている。散歩する時に滑らないようにと、景雲が凜華の足のサイズに合わせて作らせた特注品だった。これも外側は毛皮を張り付け、水が染みないよう油が塗りこまれている。
全身モコモコ姿のまま、肩には薬箱を下げ、胸に抱えた漆塗りの薬壺を落とさないように力を込める。中には、王掌事のために調合した特製の薬湯が入っていた。
本来であれば、景雲も見舞いで一緒に来るはずだった。宦官たちは連れず二人で官舎へ行く予定だった。
だが、折悪く国境からの緊迫した軍事上奏が届き、景雲は外廷から動けなくなってしまった。
「終わり次第、直接官舎に行く。お前は先に行け」という極秘の連絡を受け、凜華は一人で壺天閣を出たのだった。
凜華は白い息を吐き、外套の襟をさらにきつく合わせた。
サワッ、サワッ……。
凜華が静まり返った後宮を歩くたび、抱えた薬壺と毛皮が激しく擦れ合った。外套の極細の毛先一本一本に、逃げ場を失った「静電気」が溜まっていく。外套の毛皮は、目に見えない紫電のヴェールをまとったかのように帯電し、その毛先はふわりと粟立っていた。
凜華の歩く姿は、夜の闇に溶け込みながらも、一瞬の火花で牙を剥く「冬の蓄電器」そのものと化したのである。
王掌事の容態は悪い。
秀倫たちも薬を、首を長くして待っているに違いない。
女官たちの献身に思いを馳せながら、凜華は鬱蒼とした木立の奥に佇む官舎内に足を踏み入れた。
庭を抜け、建物の近くまで来る。周囲に人影はなかった。
秀倫たち三人はどこにいるのだろう。たまたま席を外しているだけか、それとも休憩か仮眠をとっているのか。
静まり返った建物の前で、凜華は息を整え、凍えた指先で扉の取っ手に手をかけた。
鍵はかかっていない。
凜華がゆっくりと扉を押し開けた、その瞬間。
「……うあっ」
凜華は激しい目眩を覚え、数歩後ずさりそうになった。
言葉を失うほどの圧倒的な熱気と、暴力的な匂いが押し寄せてくる。
極寒の外界から一転、そこは熱帯の密林に迷い込んだかのように蒸し暑かった。
重く湿った熱気が凜華の肌にまとわりつき、全身から汗を吹き出させる。
視界は白く濁り、異様な匂いが室内に充満していた。
鼻腔を突き刺すのは、苦丁茶の強烈な青臭い香り。そして奥からは、病床の王掌事が放つ甘酸っぱい呼気が溶け合うように混ざり合っている。
相反する二つの匂いが、酸素の希薄な熱気の中で攪拌され、一種の幻惑的な空気を作り出している。
あまりの息苦しさに、凜華の胸は激しく上下した。
「王掌事……?」
凜華は掠れる声で呼びかけながら、薬壺をしっかりと抱え直し、白く煙る室内に入った。
行く手には、赤々と熾る火鉢の光が不気味に揺らめいている。
彼女の毛皮に溜まった静電気が、その力を発揮するまであとわずか――。




