第161話 冬宮の静火、蟲毒の始末<二>
「よい。面を上げよ」
景雲の声は鷹揚だったが、深い憂愁の色が滲んでいた。
「……そうか。王掌事がな。して、現在の容態はどのようなものだ?」
景雲の問いかけに、秀倫が恭しく口を開いた。
「はい。ここ数日はお食事も喉を通らず、ただ床に臥せっておいでです。我ら下役も夜を徹して看病しておりますが、お苦しみになるばかりで……」
すらすらと澱みなく流れるが、景雲の耳にはどこか、あらかじめ用意された台本を読み上げているような奇妙な冷たさが感じられた。
それに続く麗衣は、
「王掌事さまは、私どもにまで気丈に振る舞われますが……」
と口にしたものの、途中で言葉を濁し、しきりに秀倫の顔色を窺うように目を泳がせている。
一番年若の彩華に至っては口も開かず、床を見つめたまま浅い呼吸を繰り返していた。
上司の病を憂うというよりも、何か隠し事が露見するのを恐れているかのようである。
景雲は、顔を上げた三人を見下ろすようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「掌事には世話になった。凜華が薬を届けるのであれば……私も非公式に見舞いに行こう」
それは、老齢の臣下を気遣う皇帝の慈悲深い発言に他ならなかった。が、三人の女官の間に異様な反応が走った。
秀倫は微動だにしなかった。が、伏せられた長い睫毛の奥に「暗い光」が鋭く閃いたのを、景雲は見逃さなかった。
麗衣は、紅を引いた唇をかすかに震わせた。彼女の指は、床の敷物を無意識にきつく握りしめている。皇帝の見舞いに対する歓喜ではない。明らかな恐怖、あるいは焦燥に似た動揺であった。
彩華は、ひたすらに身を縮め、顔に純粋な驚きと怯えのようなものを浮かべている。
なぜ皇帝が見舞うと聞いて、このような反応を示すのか。景雲の中で、冷たい疑惑の蛇が鎌首をもたげた。
しかし、彼はそれを緊張のためと考え直し、淡々とした声で告げた。
「下がってよい」
「ありがたき幸せに存じます、陛下」
秀倫が丁寧に礼を言い、三人の女官は壺天閣を辞していった。
居間の扉が閉まり、部屋に再び沈黙が戻った。
「陛下も来るの? 大袈裟なことになりそう……患者を興奮させないでね」
凜華が心配そうに言い、火箸で火鉢の炭をつついた。
「ああ、見舞いも忍びで行くさ。驚かせはしない。にしても、お前でも消喝病はどうにもならないのだな」
「生活習慣病だから初期の段階で治療を始めていればなんとかなったかもだけど、進行してしまうとね……。もうできることは限られているわ」
凜華は残念そうに言った。
現代の医学をもってしても、末期まで進行してしまった消喝病(糖尿病)の重篤な合併症や臓器不全を治すことは不可能に近い。それは医療の限界を見せつけられる残酷な現実でもあった。
だが、完治が望めないからといって、患者を見捨てる理由にはならない。
激しい喉の渇きを潤すこと、神経の痛みを和らげること、少しでも穏やかな眠りをもたらすこと。
病魔そのものを根絶できなくとも、患者の苦痛をやわらげ、残された時間を少しでも楽に過ごさせるための「緩和」の手段ならある。
奇跡は起こせなくとも、今自分にできる最善を尽くす。
それが凜華の、病と命に対するスタンスであった。
景雲は、腕を組んだまま窓の外の深い闇をじっと見つめた。その美しい横顔には、帝王ならではの深い孤独の翳りが滲んでいる。
「ただの女官であれば、私もわざわざ見舞おうとは考えん」
景雲は再び長椅子に腰を下ろした。
「王掌事は、長らく司設司の長として後宮の物品管理を司ってきた。それはつまり、私の父――先帝の妃たちとも頻繁に接し、後宮のあらゆる愛憎と暗闘をその目で見てきたということだ」
景雲の瞳が、火鉢の揺らめく炎を映して妖しく光った。
「特に……趙皇后。彼女が失脚し、冷宮へ幽閉された後、そこに物資を搬入する手配を命じられていたのが、他ならぬ王掌事だ」
おそらくは冤罪でありながら、冷宮に幽閉され、餓死させられた悲運の皇后。彼女は、景雲が生まれながらに背負う枷そのものだ。
「先帝と趙皇后、次の皇后となった私の母、すべてが交差する最前線に立たされていた」
景雲の声は、どこか同情的だった。
「皇帝の命令と妃たちの情念。その板挟みになりながら己の職務を全うする。……想像を絶するほどの苦労と、誰にも言えぬ秘密を抱えて生きてきただろう」
火鉢の炭がパチンと小さく爆ぜた。
「もしかして王掌事に何か聞くつもりでいるの?」
凜華が尋ねると、景雲は目を閉じ、ふうっと長く息を吐いた。
「いや、何も。今更老骨を責めて、過去を蒸し返す気はない。王掌事は父の命令に従っただけだ。そうしなければ生きてゆけなかった」
景雲の言葉は、血塗られた歴史のページを一枚一枚めくるかのような、重く悲痛な響きを持っていた。
凜華は急に寒さを覚え、綿入れの襟をきゅっとかき合わせた。
先ほどの三人の女官たち――秀倫の暗い瞳、麗衣の震える唇、彩華の怯え。彼女たちの反応は、景雲の語る凄惨な過去とは関係ないだろうが……。
「とにかく私は薬を作って届けるよ。気休めかもしれないけど、ないよりはマシだろうから」
凜華の決意に満ちた瞳を見つめ、景雲は「頼む」とだけ言った。
壺天閣の夜は、嵐の前の静けさのごとく、穏やかに更けてゆく。




