第160話 冬宮の静火、蟲毒の始末<一>
さて、世に火事は数あれど、衣の摩擦が生む「静電気」から大火災に発展した例は、古くから存在する。
例えば、西方の錬金術師が蒸留器のそばでうっかり猫を撫でたがために、部屋に充満した高濃度のアルコール気体に引火して自らの髭ごと吹き飛んだという逸話や、明るい場所では炎が透けて見えない「木精」の火に焼かれ、不可視の魔神に襲われたと勘違いして発狂した男の記録などである。
目に見えぬ気体と、目に見えぬ炎、衣から生じる目に見えぬ電気、これら三拍子が不運にも揃った時、密閉された冬の空間は人間の想像を越える奇術の舞台に変貌する。
瑠璃色の夜の底に、壺天閣はひっそりと沈んでいた。
窓の外では、凍てつくような冬の風が吹き荒れ、刃のような鋭い音を立てているが、居間は春の陽だまりのような温かい空気に満ちていた。
意匠が施された青銅の火鉢の中では、最高級の白炭が赤い花を咲かせている。火鉢の傍には衣桁が置いてあり、そこには凜華の毛皮の外套がかかっていた。
凜華は暖かい綿入れを羽織り、卓に置いた薬草の選別に没頭していた。その傍らでは、景雲がくつろいだ姿で長椅子に横になり、彼女の横顔を愛おしそうに眺めている。二人は時折会話をし、茶や菓子をつまみながら、長い冬の夜をのんびりと過ごしていた。
だが、後宮の平穏というものは、薄氷の上に浮かぶ幻のようなもの。やがて扉を遠慮がちに、しかし切迫した響きを伴って叩く音がした。
しばらくして、応対した寿寿が居間に入ってきた。
「凜華さん、ごめんなさい。今、女官の方々がいらして。今日は遅いからとお断りしたんですけど、どうしても薬が欲しいと言うんです」
すまなそうに肩をすくめる寿寿に、凜華はこともなげに言った。
「いいよ。通して」
言いながら、景雲の方を見ると彼は不承不承ながらも起き上がり、屏風の裏へ入っていった。お忍びで来ている以上、自分を理由に客を断らせるのもおかしい。部屋の奥の椅子に座り、客たちをやり過ごすことにした。
景雲が身を隠すと、寿寿が女官たちを案内してきた。
三人の女官が、しずしずと音をたてずに部屋に入ってくる。彼女たちは、冷たい夜気に当てられたせいか顔は青ざめ、身体は震えていた。
「あなたたちは……司設司の女官ね」
凜華は表情を薬師のものへと切り替えた。
司設司とは、広大な後宮の建物や調度品の管理、冬場の防寒設備の設営などを一手に担う部署である。
先頭に立つのは、落ち着いた物腰と切れ長の瞳に知性を感じさせる年長の女官、秀倫。
その後ろには濃い化粧を施し、妖艶な翳りを帯びた麗衣。
そしてまだ年端もいかず、おどおどと周囲の様子を窺う彩華が続いていた。
「はい。私は司設司に務めております秀倫と申します。本日は、我らの上長である王掌事のことで、凜華さまにお縋りしたく参りました」
秀倫が深々と、床にくずおれるような優雅さで頭を下げる。
「王掌事……。ああ、『消渇病』を患っている」
消渇病は、現代の糖尿病のことである。
いくら水を飲んでも渇きが癒えず、全身の肉が溶け出すように痩せ細っていく。尿からは熟れすぎた果実のような甘い匂いが立ち上り、やがて手足の先から壊死していく。
この世界においては、不治の病だった。
王掌事はかなり病気が進行してしまっていた。薬師房の薬師たちが診ているが、凜華もできる限り協力していた。
要望があれば、病気の進行を少しでも遅らせるための薬を調合し、司設司に届けていた。女官たちが壺天閣にやってきたのは初めてである。
「容体が悪いの?」
凜華が尋ねると、秀倫は神妙に頷いた。
「はい。ここ数日、めっきりお加減が優れず。口からは妙に甘酸っぱい、熟れすぎた果実のような匂いがします。凜華さまに頂いたお薬も底をついてしまいまして……」
秀倫の端正な顔が、深い憂いに満ちる。
「どうか、新しいお薬をいただけないでしょうか。王掌事さまは、夜も眠れぬほどの痛みに苛まれておりまして……」
悲痛な訴えに、凜華は小さく息を呑んだ。
呼気から甘酸っぱい匂いがするなら、かなり危険な状態である。
「わかったわ」
凜華は力強く言った。
「王掌事の薬は、数種類の生薬を特殊な手順で煮出す必要があるの。今すぐには用意できない。明日まで待って欲しい」
「明日ですか」
「明日の夜にでも私が官舎まで持ってゆく。診察もできるしね。必ず持っていくから待っていて」
三人の女官たちは一様に安堵の息を漏らした。
「ああ、ありがとうございます。これで王掌事さまも少しはお楽に……」
秀倫が再び深く頭を下げる。
部屋をきょろきょろと見回した麗衣が、衣桁にかかった毛皮の外套に目をとめた。
彼女の目が大きく見開かれる。一目で滅多にない高級品と見抜いたのだった。彼女は興奮気味に言った。
「素晴らしい外套ですね。これは凜華さまの……?」
「それは陛下の――」
お古で……と凜華が説明しかけたその時だった。
「王掌事の病状、そこまで芳しくないのか」
部屋の奥、火鉢の光さえ届かぬ暗がりから、低く威厳を帯びた声が響いた。
それは、どれほど気配を消そうとも隠しきれない絶対君主の響きだった。
声の主が立ち上がり、屏風の裏から歩み出た瞬間、三人の女官は雷に打たれたように硬直した。
「へ、陛下……?」
三人は悲鳴のような声をあげながら、床に額を擦り付けるようにして平伏した。彼女たちの背中が、小刻みに震え始める。
皇帝がこのような夜更けに、しかも薬師の部屋に居合わせているなど、彼女たちの想像を越える事態であった。




