第159話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<六>
それから一刻(二時間)も経たぬうちに、宮城の北東から、歓声とともに兵たちが戻ってきた。
先頭を行く陸栄利の手には、壺が大事そうに抱えられていた。壺の中には、布袋に入った本物の薬用炭が入っていた。
壺は肥溜めの裏手の、古い道具置き場の床下に埋められていた。もし布袋のままであったら、薬用炭は周囲の匂いを吸着してしまい使い物にならなくなってしまったが、壺に入れられたことで不活化を免れた。
彼らは、牧舎に刑部を残してその後も張り込ませたが、壺の回収に現れる者はなく、高景明の協力者を捕らえることはできなかった。おそらくは謁見の間でのことが、早くも盗んだ一派に伝わったのだろう。
「見事だ……見事すぎるぞ、凜華!」
回収された壺の中身を確認した景雲は、まるで我が子が戦から無事に帰還したかのような満面の笑みを浮かべた。
「なんとか取り戻せてよかった。これを失っては大損害だからな」
きな臭さは残るが、ひとまず盗難事件は解決を見たわけである。
景雲は壺を洗わせ、蓋を蜜蝋で密封させると、薬師房の薬師たちを呼びつけた。
「今後はもっと厳重に管理せよ。誰であっても倉庫内に一人にするな」
と厳しく言い放ち、壺を引き渡した。
薬師たちは顔面を蒼白にして平伏し、壺を押しいだくようにして慌ただしく退室した。
それを見送った後、景雲は凜華だけを連れて居間に移った。
部屋に入り、重厚な扉が閉まると、彼は倒れるようにして長椅子に深く身を沈めた。
「それにしても……監察官にまで裏切られるとはな」
その声は沈み、拭いきれない徒労感が混じっていた。
宮廷内の不正を取り締まり、官僚たちを監視する高い役職の者までもが、皇帝を敵視する勢力に加担し、盗みを働いたのだ。
一体、誰を信じればいいのだろうか。足元の床板が外されて落ちてゆくような闇の深さに、景雲は人知れずショックを受けていた。
暗く沈んだ景雲に対し、凜華は空気を読まない軽やかな足取りで近づき、卓の上の茶器を手に取った。
器に香りのついた白湯を注ぎながら、彼女はあっけらかんと言った。
「まあまあ、そう落ち込まないで。三人とも犯人じゃなくてよかったじゃない」
「……は?」
景雲は怪訝そうに顔を上げた。
凜華は彼に茶杯を手渡しながら、にっこりと笑う。
「もしあの容疑者三人全員がグルで泥棒だったら、私でも立ち直れないかも。でも、徐さんと陸さんの二人は違った。悪い人間が目立つだけで、宮城で働く大半の人はちゃんと真面目に働いてるわけだし。あなたは味方の方が圧倒的に多いよ」
そのあまりに素朴で、ポジティブすぎる慰め方に、景雲は思わず脱力した。
「……そういう問題ではない。高官たる監査官が寝返ったという事実が重いのだ」
「えー、せっかく慰めてあげてるのに」
凜華は口を尖らせて、ちゃっかり自分の分の白湯を啜った。
「それにしても、なぜ奴らは薬用炭を盗んだのだろうな。国外にでも持ち出して、万能の薬として売る気だったのか。それとも……この先、私に毒を盛った際、救命措置をとらせないための布石か」
凜華も真面目な顔になり、小首を傾げて答える。
「その両方かもね。売れば莫大な金になるし、いざという時の暗殺の成功率も上がる」
その言葉に、景雲は沈黙した。
自分を狙う見えざる敵は、確実に足元まで忍び寄ってきている……気がする。
強力な解毒薬を作り出し、今回の事件でも敵の目論見を打ち砕いた凜華は、もはや単なる薬師の枠を超えている。敵から見れば「排除すべき障害」として認識されたはずだ。
今後は凜華が狙われたり、権力闘争の巻き添えになったりする可能性は高い。
彼女の身の安全を思えば、遠ざけるべきなのかもしれない。
だが――。
景雲は凜華を真っ直ぐ見つめた。
その瞳の奥には、皇帝としての政治的な思惑と、一人の男としての昏い独占欲が渦巻いている。
この奇妙で面白く、とんでもない才覚を持つ女を手放すことはできない。たとえ地獄の底まで付き合わせることになろうとも、自分の傍に置いておく。
景雲は不意に手を伸ばし、凜華の手首を掴むと引き寄せた。
「え、ちょっと。なに?」
体勢を崩した凜華が驚きに目を見張る中、景雲は至近距離から彼女を覗き込み、低く情念すら滲むような声で告げた。
「……何があっても、お前を離さないからな」
それは皇帝の命令というよりも、永遠の執着を誓うかのような熱を帯びた重い言葉だった。
突然の強引な振る舞いと、有無を言わさぬ眼差しに凜華はパチパチと瞬きをした。
そして笑いながら言った。
「うん、私もあなたと一緒にいるよ」
「そ、そうか?」
景雲の胸が予想外の言葉に高鳴った、次の瞬間。
「だって、あなた以上のビッグスポンサーはいないしね。それに薬用炭を備蓄しておくという考えもいい。リスクヘッジとして有効すぎる」
「りすくへっじ?」
「危機対策。経営者として一番大事な意識だよ」
「……私は皇帝なのだが」
「国を経営してるじゃない」
凜華の屈託のない、かつ現金極まりない声が居間に響く。
「……」
景雲はガクッと肩を落とし、思わず握っていた手首を放してしまった。
――この女、本当に色気も風情もない。
内心で深く落胆し、呆れ返る景雲だったが。
まあ、離れる気がないならいいか……と、毒気を抜かれたように小さく嘆息するのだった。




