第158話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<五>
「はい、右の穴おしまい!次は左の穴ね」
「んぐううっ! ぶ、ぶふう!」
まさに尊厳のメッタ刺しである。
官僚たちが「うわあ……」「なんと痛ましい……いや、自業自得か」とさざめき合う中、凜華は「採取完了!」と綿棒を引き抜いた。
高景明は涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、激しく咳き込んでいる。エリート官僚のプライドは、一本の綿棒によって粉砕されてしまった。
しかし、凜華が手に入れた成果は絶大であった。
純白だった真綿の先端は、肉眼でもはっきりとわかるほど、真っ黒に染まっていたのである。
これこそが彼が薬用炭を吸い込んだ、動かぬ証拠であった。
「毒素を含めた物質を強力に吸着するってことは、『匂い分子』もスポンジみたいに吸い込みまくるってことなのよ」
ここで凜華は、薬用炭の第二の特性についてのレクチャーを始めた。
「薬用炭は、常温の時は周囲のあらゆる匂い成分を吸ってガッチリと閉じ込める。だけど、一定以上の熱を加えると、それまで閉じ込めていた匂いを一気に再放出する性質がある。これを『脱着』と呼びます」
「脱着……?」
景雲が首を傾げる。
「百聞は一見に如かず。火鉢を持ってきて」
宦官たちがすぐに火鉢を運んでくる。
凜華は、真っ黒に染まった真綿から炭の粉だけを削り落とし、鉄の小皿へ移した。綿ごと焼いてしまうと焦げ臭さが勝ってしまうからだ。
そしてその小皿を火鉢の上に据える。赤々と熾った炭火の熱が、鉄皿を通じてじわじわと伝わっていく。涙を拭う高景明も「ふん、鼻の汚れから何がわかるというのだ」と負け惜しみを吐きながら睨みつけた。
鉄皿が本格的に熱を帯び、黒い粉がチリチリと燻り始めた、まさにその瞬間であった。
「……んんん。なんだ、この異臭は!」
興味本位で火鉢を覗き込んだ景雲が、顔をしかめ、弾かれたようにのけぞり袖で鼻を覆った。
周囲にいた宦官たちも「く、臭い」「なんなんだ、このおぞましい臭いは!」と一斉に鼻をつまんだ。
鉄の小皿から立ち上ったのは、鼻がひん曲がりそうな激烈な悪臭であった。
一言で表現するならば、長期間放置されてドロドロに発酵した「家畜の糞尿の山」と、ヘドロが詰まりきった「古い排水溝の泥」を足して、極限まで濃縮したかのような臭気である。
「うわ、これはキツいね」
凜華も自爆気味に鼻をつまみながら、鉄皿をひょいと持ち上げた。高景明の目の前に突きつけた。
「どう、高大人? この匂い、覚えがあるでしょ」
「な、な……っ!」
鼻孔を直撃した悪臭に、高景明は顔を青ざめて後ずさりした。
「そんな馬鹿な……。私がすり替えた時には匂いなどしなかった!」
「そりゃそうだよ。倉庫にあった時は無臭だもん。匂いがついたのはその後。あなたはこの強烈な悪臭がする場所へ薬用炭を隠しに行ったでしょ?」
凜華はニヤリと笑った。
「鼻の粘膜にへばりついた薬用炭が、隠し場所の悪臭を吸着したのよ。あなたはただの炭と舐め腐ってたし、実際アホみたいに高いけど、その価値はあるものなんだからね」
「吸着……? は? はあ……?」
薬用炭が持つとんでもない効能に、高景明は目を白黒させた。
凜華は慎重に匂いを吟味する。
「にしてもくっさいね。家畜の肥溜めと……ドブを煮詰めたような匂い。排水溝かな? 後宮は、基本的に男は入れないから外廷だよね。これでかなり絞れるような気がするけど」
そこに、それまで黙っていた徐文亮がおずおずと手を上げた。
「あのう……すみません。これ、もしかしたら御用牧舎の匂いかもしれません」
「御用牧舎?」
「はい、北東の隅にある家畜小屋です。私は会計係ですから帳簿に書かれた数字と合っているか、定期的に在庫の確認に行くんです。家畜の数も全部数えます。裏手が臭すぎて倒れそうになりますが……」
後宮の北東には、宮廷料理に供する豚、牛、羊や鶏を飼育する家畜小屋があり、肥料用の肥溜めも設置されていた。
そのすぐ脇には、数十年前から泥に覆われた古い排水溝が走っている。あまりに臭いため、用がなければ近づく者はいない。
「わお! 徐さん、ナイス棚卸し! ナイスアシスト!」凜華が手を叩く。
間髪入れず、景雲は叫んだ。
「陸栄利! 今すぐ刑部を連れて北東の牧舎へ向かえ。肥溜めの中から床下まで徹底的に捜索せよ」
「ハッ! お任せください。必ずや皇帝御薬を見つけ出してみせます」
武官の陸栄利は拱手すると、己の潔白が証明された喜びも相まってか怒涛の勢いで飛び出していった。
「ああ……。そんな、嘘だ……」
残された高景明は今度こそ、その場に崩れ落ちた。
鬱金の粉で犯人と見破られ、隠し場所も自分の鼻の中にあった炭の粉が暴いてしまった。
薬用炭の恐るべき効能をまざまざと見せつけられ、完全に放心状態に陥ってしまった。




